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真岡郵便電信局乙女9人集団自決


真岡郵便電信局
乙女9人集団自決



皆さん これが最後です さようなら


真岡郵便電信局事件。

ソ連軍が侵攻した樺太・真岡で女性電話交換手9名が自決。



真岡郵便電信局事件というのは、昭和20年8月20日、すでに終戦詔勅も発せられ、日本が戦闘を終結させていたはずのこの日に、日本領であった南樺太ソ連軍が侵攻してきたことによって、最後まで本土との通信回線保持のために職務をまっとうした女史電信職員9名が集団自決した事件です。

まず事件の背景を簡単に振り返ってみたいと思います。



ソ連は8月9日に、いきなり日ソ不可侵条約を破って満州樺太アリューシャン列島にまで攻め込みました。ソ連はそのままの勢いで、北海道や朝鮮半島全域まで、自国の領土に収めようとしたのです。





日本は、ソ連の侵攻を知ると、8月13日には、樺太でも緊急疎開を開始しました。
15日正午には、玉音放送が流れ、大東亜戦争終結していますが、それでもソ連が侵攻してきている以上、とにもかくにも樺太に残留する邦人を、特に女子供を優先して本土に疎開させなければなりません。

ところがこの疎開用の輸送船を狙って、ソ連の潜水艦が攻撃をしかけています。
この攻撃によって、疎開しようとしていた1700名の日本人乗員が殺害されています。8月22日のことです。
輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。

集団疎開は23日まで続くけれど、その危険な航海に、日本の船の乗員たちは勇気をもって挑み、短期間に約8万7000人を北海道へと輸送し、脱出させています。実に勇敢な行為です。
そしてこの輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができないのが本土との通信連絡網の確保です。

当時、樺太と日本本土の間には、電話線が引かれていました。
そしてその電話は、郵便局にいる電話交換手の女性たちが、手作業で回路の接続業務(電話交換業務)をしていました。

8月16日の朝のことです。
樺太の真岡市にあった真岡郵便局で、朝礼が行われました。



その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しました。

政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ています。
でも、その疎開を効果的に実現するためには、電話交換業務を継続しなければなりません。
そこで、残って交換業務を続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員、一度家族と相談したうえで、返事を聞かせてください。



かずえさんのこの言葉に、その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、「私は残ります」、「私も残ります」、「私も残らせて下さい」とこたえたそうです。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。

かずえさんは、みんなのその気持ちが嬉しく、しかしみんなを危険にさらさせるわけにいかず、目に涙を浮かべながら言いました。
「みなさん、今日は、希望者は募りません。家に帰り、一度家族と相談してから、残るかどうかを班長に伝えてください。」

現実問題として、ソ連兵が来たら、何をされるかわからないのです。
「残る」ということは、最後は「自害する」しかない。
だから、自分ひとりで決めちゃいけない。あくまで家に帰って、親と相談してから、あらためて希望者は名乗り出てください、と鈴木かずえさんは締めくくりました。





斉藤春子さんは、妹の斉藤美枝子さんと、ふたりで、電話交換手として働いていました。
斉藤姉妹は、二人とも、残留を志願しました。
娘たちを想うお母さんは、真岡郵便局長に電話をかけました。
「娘二人とも預けたままでは、引き揚げられない。だから、どうしてもひとりだけでも連れて帰らせてください。」

18日、上田局長は、斉藤姉妹を呼び出して母親からの電話のことを伝え、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げました。
姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返したといいます。
そして言い合いの後、姉が母と帰ることになりました。
そんな姉妹の姿を黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんも、母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように、帰しています。
こうして最終的に、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。



8月19日の朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えました。
電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられました。

午後7時、最初の夜勤当直班として、高石班11名が勤務に付きました。
この時点で、真岡郵便局にいたのは、平井茂蔵電信主事他、男性職員6名、女性職員が14名です。
高石班11名は、電話交換業務を行う奥の建物にいました。

翌朝7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの布告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を行います。
そしてソ連軍の上陸用艇が、真岡に上陸する。



南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって、降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をせず、一般人の避難のための時間を相手に与えています。
戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとしたからです。
これが日本の姿勢です。

便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。そんな卑怯なルールを無視した支那兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情をかけ、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をしていたのです。
ところが真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行ないました。
多くの真岡市民は、防空壕に入る間もなくこの艦砲射撃で命を失っています。



どうにか艦砲射撃を逃れた真岡郵便局の高石班長は、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行い、職員全員に非常招集をかけました。
本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期できたからです。
地震や台風などのあと、電話回線がパンクするのを想像したら、事情はおわかりいただけようかと思います。

局員たちは、急いで郵便局に向かいました。
ところがその頃には、すでにソ連兵が市内に上陸しています。
彼らは動くものを見れば、片端から銃撃する。
武器を持たない丸腰の日本の民間人でも、容赦はありません。
見つけ次第殺し、屋内に侵入しては強姦や略奪を始めていたのです。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されています。

艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員が、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しています。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子は、後に次のように証言しています。
「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした。」
まさに、猛攻がおこなわれていたのです

上田郵便局長も郵便局へ向かいました。
けれど、手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難しました。
するとその建物には、局長の他5~6名が、先に避難していました。

建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、上田郵便局長が隠れている建物に向かって走り出しました。
ところがあと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。

自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長が目の前で倒れたのです。
上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引きずり込もうと、路上に飛び出しました。
すぐあとを同僚の局員が続きました。
その二人をみつけたソ連兵が、また発砲しました。

上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れてしまう。
血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が、棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をしました。
その場の全員がただちにソ連兵によって拉致される。

さらに真岡郵便局では、平屋建ての本館と、奥の2階建ての別館があったけれど、本館は艦砲射撃で破壊され、そこにいた全員が死亡してしまいます。
こうして、指揮系統を失った電話交換手の女子11名だけが取り残されたのです。

彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しました。
けれど、はじめのうちは遠くにあったソ連兵の銃撃の音が、どんどん間近に迫ります。
さらに表側にあった郵便局本館が吹き飛ばされる。
もはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
それが、
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」というものです。

11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿があった。

その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返しました。
ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出しています。
けれど残りの9名は、そのまま還らぬ人となってしまいました。





このことから、戦後、アホな学者などが、真岡郵便局の女性たちは、何も死を選ぶ必要がなかった。なぜなら2名の女性は、ソ連兵によって救助され、命を永らえているではないか、彼らは悪魔ではない、などといい加減な議論をしている者もいるのだそうです。

そういう学者たちは、通化事件その他、満蒙で起こった事件にほおかむりしています。
ソ連兵にとって強姦は戦利品のようなものです。
青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけのことです。
残酷だけれど、それが事実です。



ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺された。
そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ、死ぬまで強姦された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。

このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
≪参考:尼港事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-542.html

このような危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局の乙女たちが、おのれの人間としての尊厳を守るために、他にどういう選択肢があったのでしょう。

彼女たちのご冥福を祈り、昭和天皇香淳皇后は、御製を残されました。

昭和天皇 御製】
 樺太に命を捨てし たおやめの
  心思えば 胸せまりくる

香淳皇后陛下 御歌】
 樺太につゆと消えたる おとめらの 
 みたまやすかれと ただいのりぬる

この事件は、後に「氷雪の門」というタイトルで映画化されました。
その冒頭のナレーションです。

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樺太(からふと)・・・
いまはソ連支配下にあり「サハリン」と呼ばれているこの島は、ともすればもう、人々の記憶から遠ざかろうとしている。

だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、多くの人々にとっては、いつまでも懐かしく心を去らない故郷(ふるさと)である。
また、ある人々にとっては、父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
その思いをとどめようとするために、ここ北海道稚内市稚内公園に、ひとつの門が建っている。

この白御影石を使用した十メートルあまりの二本の塔。
その下に、厳しい樺太の風土に耐えて生き抜いた人々をあらわす女人像。
これは「氷雪の門」と呼ばれている。

この碑文には、次の言葉が刻まれている。
・・・・・・
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。
戦後はその門も固く閉ざされた。
望郷の念止みがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
この塔を建つ
・・・・・・・

またその近くに、いっそうの屏風のように形作られた九人の乙女の碑。
「皆さんこれが最後です。さようなら」
この言葉の意味を知らない人は多い。
また、初めてこの碑の存在に気付く人も。

そして傍(からわ)らの碑文を読む人は、これが樺太西海岸真岡町、真岡郵便局電話交換手九人の、最後の言葉であることを知るだろう。
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九人の乙女の碑


この映画は、昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となりました。
ところが、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
「非常にソビエトにとって面白くない映画が日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」と発言したことで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になりました。
上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけです。
映画はお蔵入りになりました。

真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より「人類の理想の国家ソ連」への礼賛が、戦後反日左翼主義者たちには大事だったのです。

けれども彼らが礼賛したソ連がどういう国だったのか、ソ連崩壊を目の当たりにしてきたいま、世界中の人が、その事実を知っています。

真岡郵便局でお亡くなりになった九名の乙女たちです。
 高石ミキ   24歳 
 可香谷シゲ 23歳
 伊藤千枝  22歳
 志賀晴代  22歳
 吉田八重子 21歳
 高城淑子  19歳
 沢田きみ  18歳
 渡辺 照   17歳   
 松崎みどり 17歳  

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【碑文】
8月20日、ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった9人の乙女らは、死をもって己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険。
今はこれまでと死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み、夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。
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ひとつだけ、大切なことを加えておきます。
南樺太は、日本領であり、戦前まで日本人が入殖していました。
もともと、樺太は北海道より北側の、緑も何もない荒涼とした赤土の大地でした。

みなさま、機会がございましたら、是非、google MAPの航空写真で、その樺太を見てください。
日本領だった南半分だけが、いまでも緑の大地となっています。
日本人が、冷たい寒帯の島で、土を耕し、たくさんの木を植えたからです。

その緑が、いまでも南樺太の大地に育っています。

真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土ででお亡くなりになった皆様のご冥福を捧げ、このお話を皆様にお送りします。


草莽崛起 PRIDE OF JAPANさんより転載