牟田口 廉也中将
インパール作戦を指揮
あまりにも不自然な作戦
大東亜戦争の末期、昭和十九年三月から六月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。
けれど補給の不備で攻略を果たせず、空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却しています。
この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。
沿道には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、その街道は「白骨街道」と呼ばれています。
このとき生還した兵の記録に次のようなものがあります。
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道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。
また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。
そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。
地獄とは、まさにこんなところか......。
その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。
それをたどって行けば、 細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。
皆これを白骨街道と呼んだ。
この道標を頼りに歩いた。
(『ビルマ最前線』小田敦巳)
イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。
死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。
こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。
負ければ賊軍は世の習いです。
しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。
むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶか」が大切なことだと思います。
そういう姿勢でこの作戦を見ていくと、驚くべき事実や不思議な出来事が浮かび上がるように、はっきり見えてくるのです。
インド兵を温存せよ
昭和十八年九月の御前会議で、絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
インパール作戦は、その基本戦略に反しています。
なぜなら、国防圏の外側にあるインドに、撃って出ようというのです。
どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。
しかも、はじめは反対していた大本営も、当時日本に滞在していたインドの独立運動家、チャンドラ・ボースの強い要請を受けて、作戦の実施を認めたといいます。
もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。
守るイギリス軍は15万です。
攻める日本軍は9万です。
亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。
ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。
数で劣る日本軍は不利です。
ところが実は、ほかにインド国民軍四万五千がいたのです。
この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。
ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという 六千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。
普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。
これはインド独立のための戦いなのです。
インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。
ところが日本軍はそうしませんでした。
むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。
戦闘 のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。
だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。
日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。
こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。
下級将校クラスであれば、当然
そのくらいのことは考えていたはずです。
末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。
果たして遠からずインドは独立しました。
その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間 近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。
インド解放のため死しても戦う
驚くことに、こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かったのです。
インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。
しかし、日本軍は戦闘のプロです。
作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。
ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。
後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。
その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。
一人も降伏しない。
誰も勝手に退却しない。
敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。
そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
前半戦は勝っていたのです。
食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。
有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。
戦いの二カ月というのはものすごく長い期間です。
相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。
世界最高の軍紀を誇った日本軍
さらに日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。
餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。
すでに何日も食べていない。
負傷もしている。
病気にも罹っている。
そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていないのです。
これは普通では考えられないことです。
銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。
戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。
それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。
戦後、実際にインパール作戦に従軍された方々によって、たくさんのインパール戦記が刊行されたけれども、驚くことは、民家を襲わなかったことを誇る記述を、誰一人として残しておられないということです。
戦争に関係のない民家を襲わないなんて「あたりまえ」のことだったからです。
むしろ、退却途中でビルマの人に助けてもらった、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多い。
それが日本人です。
そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。
勝利を祝わなかったイギリス軍
この戦いはイギリス軍15万と日本軍9万の大会戦です。
有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万だから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。
にもかかわらず、不思議なことにイギリスは、このインパールの戦いの勝利を誇るというこをしていません。
戦いのあとインドのデリーで、ゴマすりのインド人が戦勝記念式典を企画しました。
けれどイギリス軍の上層部は、これを差し止めたと伝えられています。
なぜでしょうか。
理由は判然としません。
しませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となく分かる気がするのです。
それは、「第一線で戦ったイギリス軍は、勝った気がしなかった のではないか」ということです。
自分たちは野戦食としては満点の食事を取り、武器弾薬も豊富に持ち、必要な物資は次々と補給される。
そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。
それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しもどこか負傷し、そして弾の入っていない銃に着剣して、殺しても殺しても向かってくる。
それが何と自国のためではなく、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
そんな戦いが六十日以上も続いたのです。
ようやく日本軍の力が尽き撤退したあとに、何万もの日本兵の屍が残りました。
それを見たときにイギリス人たちは、正義はいったいどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることが果たして正義なのかどうか......。
魂を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。
実際、インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっています。
やる気がまるで感じられないのです。
ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。
以前のイギリス軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を撃ち込むくらいのことは平気でした。
そして、戦後の東京裁判でイギリスは、インドがパール判事を送り、パールが日本擁護の判決付帯書を書くことについて口を出していません。
そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。
「分かる」ということ
唯物史観という言葉があります。
犯罪捜査と同様の手法で歴史を観ていく考え方で、すべては証拠に基づいて判断する、状況証拠は証拠にならない、というものです。
けれど、日本の歴史というのは、むしろ書いてあることは「......と日記には書いておこう」という程度のものが多いのが実際です。
たてまえ 建前上のことを文字にして残し、その実情や心は、分かる人には「分かる」ようにしておく。
それがあたりまえのように行われてきたのが、日本の歴史です。
血の通った人間が、悩み苦しみ、決断して行動し、時には死を賭して戦い、そういった人生がいくつも重なりあって歴史という大きなドラマは紡がれているのです。
多層織りなす歴史を 単なる記録として扱ってしまえば、そこから学ぶものは血が通わない無機質な、実際には役に 立たない知識ばかりになってしまいます。
「分かる」ということは、たんに書いてあることを覚える、知るということとは意味が違います。
歴史の奥に隠された先人の意志や心情にまで思いを馳せることで、歴史は色彩豊かな世界を私たちに見せてくれ、真に役立つ知識を授けてくれるのだと思います。
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本の記述はここまですが、少し補足したいと思います。
インパールに限らず、この時代、日本軍の兵となっていた者の多くは、20代前半の独身男子です。
その全ての兵に親がおり、その親にしてみれば、ひとりひとりが出征したかわいい我が子です。
それだけではありません。
当時の徴兵には、必ず徴兵検査がありました。
そして兵役にとられるのは、甲種合格者です。
甲種合格というのは、身体頑健、成績優秀な若者です。
虫歯があってもダメ、視力が足りなくてもダメ、痔が悪くてもダメ、喘息もダメ、性格がひねくれていてもダメ、不良などは絶対にダメでした。
ですから甲種合格者というのは、健康な男子20名に1人の割合です。
このことはつまり、親の目から見たら、まさに自慢の息子、目に入れても痛くないほど前途ある優秀な、周囲に誇れる、誇らしい我が子ということになります。
その子が、戦地において、飢えて死んだのです。
しかも、その亡くなった街道の両脇は農村地帯であり、畑にはたわわに作物が稔り、牛などの家畜も飼育されていた。
親の気持ちとしては、「たとえ大根一本盗んででも、なんとか飢えをしのいで祖国に帰ってきてほしかった」と思うのが親の情です。
けれど彼らは、その盗みをしなかったのです。
体はマラリアに冒されて高熱を発し、満身に銃創や擦過傷を負い、携帯口糧も底を尽きています。
手には、銃があります。
銃の先には、銃剣も付いています。
村人を襲えば、いくらでも食べ物が手に入る。
襲わなくても、道の両脇には食べ物が稔っている。
それでも彼らは、盗んだり襲ったりすることはありませんでした。
なぜなら彼らは、皇軍兵士だったからです。
純潔の思いで国を愛し、東亜幸福の夢と願いを持ち、世界の人々のまごころを信じ、胸の底に輝く栄光を持っていたからです。
インパールの戦いに参戦した日本軍兵士は92,000人です。
内死者が38,000人、戦病者40,000人です。
戦友たちの骸が累々と横たわる。
何日も水も食べ物も口にしないまま、仲間たちが死んでいく。
それでも、彼らは、胸の誇りを失わなかったのです。
インパールの戦いといえば、「無謀な作戦だった」とか、「牟田口中将が馬鹿だった」とか、そんな話しか出てきません。
もちろん負け戦ですから、軍事的な意味での反省と総括は必要なことだろうと思います。
けれど、それは軍事のご専門の方々にとって必要なことであって、私たちに必要な情報ではないと思います。
そんなつまらない犯人探しより、3万8千人が飢えて死んでいっても、それでも誰一人、日本人として盗みをしなかったという事実を、わたしたちはしっかりと受け止めるべきではないかと思うのです。
インパール作戦の顛末
インパール作戦の投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人という悲惨な結果となった。すなわち事実上の全滅である(ただし、インパールでの犠牲者数は諸説ありよく分かっていない。裏を返せば、自軍の戦死者・行方不明者の数も、ちゃんと把握出来なかった程の末期的状況だったのだ)。彼らは、牟田口・東條をはじめとする陸軍上層部によって殲滅されたと言っても過言でない。インパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。
ねずさんより
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