俺は漢になりたい

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日本が変えた台湾

日本が変えた台湾

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これは1904年のニューヨーク・タイムスの記事をご紹介します。
この年は日清戦争勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目にあたります。
そしてこの年の2月には日露戦争が勃発しています。

日本による統治がいかに素晴らしかったか。
また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。

元記事は、2009年にブログ「台湾は日本の生命線」さんが紹介してくださったものですが、日本語訳について、ねず式で、すこし読みやすくしています。

ニューヨーク・タイムスの記事
(1904年9月25日)
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【日本人が変えた未開の島―台湾】
~他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々~
☆他の植民地主義国家への教訓☆
ニューヨーク・タイムス(1904年9月25日)

1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙は、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。

どんな事業でも、成功のためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして「経験」の三要素が必要です。
植民地経営も例外ではありません。
実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しました。
どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいのです。
そういう意味において、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。

日本が最初の植民地とした台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できない困難がありました。
日本統治前の台湾島は、支那やその他様々な国からの無法者が跋扈していました。
野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがありませんでした。
(註:清朝は、台湾のことを「鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女」と蔑んでいました。)

スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。
けれど絶望の内に断念しました。
支那は島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。

未開原住民の懐柔・開化

1894~1895年の日清戦争終結後、日本は台湾の割譲を要求しました。
このとき支那は、喜ばないまでも快くそれに応じました。
李鴻章は「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と、皮肉っぽく論評しています。
(註:清とは清朝で、女真族満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)

日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態でした。
奥地は、野蛮な原住民によって支配されていました。
海岸部は、難破船を分捕ったり、島に漂着した船員たちを殺害することで生きている無法者や盗賊の集団に支配されていました。
実際、台湾が支那領であった頃、外国船船員に対する台湾民たちによる殺戮や攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じています。

1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれました。
支那統治時代の台湾島の管轄者である支那の武官や官僚は、その地位を追われることを恐れて、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者である日本に対する反乱を扇動しました。
日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだのは、ようやく1901年の末頃のことです。
それまで台湾島は、常に不安定で混乱した状態が続いていたのです。

法令施行に於ける寛容さ

台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受しはじめたのは、ようやくこの2~3年のことです。
ところが台湾島の様相、すなわち、すこし前までは未開の民であった台湾の原住民の様子は、180度違うものになっています。
台湾の人々は、日本の法政を理解し、それを賞賛し始めるようになっているのです。

日本が顕著な成功を収めている政策には、次のようなものがあります。

まず日本は、可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することを心がけています。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入しています。
(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えています。)

そしてこれら「成文法」は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用しています。



阿片常用者の治療(漸禁策)

阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。
けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。
日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。
そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。
そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えました。

医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に諭しました。
教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。

台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。

17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。



財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。
なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。
台湾の民衆は、公正な政府の下で自由を謳歌できるようになったのです。

次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされました。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできたのです。
それは澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する極めて質の悪い水が主な原因でした。
そこで日本人は、浄水の供給を始めたのです。

日本が整備した台北水源地一帯
1903年着工~1905年完工
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台湾で掘られた井戸の総数は不明です。
けれど総人口の10分の1が住む台北地域だけでも、800以上もの井戸が堀られました。
(註:台北上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

素晴らしい学校制度の開始

台湾総督府医学校
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教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点です。
日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入しました。
60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する一方、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっています。

しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではありません。
というのは与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからです。
日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立しているのです。

台湾の医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する「極東で唯一の学校」という重要な特徴があります。学校は台北にあり、現時点で約150名の学生が、有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいます。

日本語学校には二つの役割があります。
ひとつの目的は、原住民の間に日本語を広めることです。けれど同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで、彼らが奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもあります。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。

日本語の役割は、
①共通語を持つことと、
②近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段として不可欠であった。
つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であったのである。
総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)

個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよります。
日本は、新植民地の繁栄増進をも、その目的としています。

鉄道網の構築

日本が台湾の割譲を受けた頃には、台湾島に道路は存在していませんでした。
そのくせおかしな話ですが、粗末な建造で、貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道だけは存在していました。
この鉄道は、運賃や貨物運送の時間が、ほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけ運航する列車でした。

日本は台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めました。
米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されています。
そして日本は、同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しています。
これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような大金です。

明治橋
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日本人が当初台湾で見た鉄道は、いまでは完全に整備され、さらに新竹-高尾間の新線建設が、両方のターミナルから同時に全力投球で始まっています。

1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車と機関車20輌が導入されました。
この期間に、運送旅客数は4倍に、そして輸送貨物量は10倍に伸びています。
加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設されました
更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される予定となっています。

台北停車場
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郵便、電信、電話も、既に導入されて、大きな成功を収めています。
1896年から1902年の間に、一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替が発行されています。

台北に置かれた郵便ポストと集配人
(なつかしい赤ポストです)
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電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び、1,350マイルの電話線が敷設され、1902年には3,690,228件の通話が行われました。

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できるようなものはありませんでした。
土地は実り豊かな土地なのです。
けれどその耕作法は、科学的なものはおろか、伝統的・絶対的なものでさえ知られていませんでした。
原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存していたのです。

台湾の農民たちは、米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものとなっていました。
それが日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びています。

農業実験場1903年創設
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同じ期間のお茶の生産量は5倍となり、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せています。
(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌したのである。)

広大な森林の利用も不十分なものでした。
原住民は不経済で、例えば楠(くすのき)から樟脳(しょうのう)を取り出す際に得られた樟脳油は、地元の精製者は廃物として取り扱われていました。


日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は、1897年の1,534,596斤から、1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びています。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれていませんでした。

ところが日本の忍耐強い指導と穏やかな主張により、あらゆる産業において改良手法の導入に成功しています。
農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げています。

銀行・通貨制度

台湾銀行台北総行
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台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになりました。
その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され、より重要な中心部に民間銀行の事務所も開設されました。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めています。
預金者数は、1896年の5,847人から、1902年には41,145人に、預金額は1806年の228,487円から、1902年には763,575円に増大しています。

台湾通貨も改革を必要としていました。
台湾は、ずっと支那と同じく為替の媒体が使われていました。
それは硬貨ではなく、金塊だったのです。
扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引も不可能でした。
今では日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっています。

日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込みました。
粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいます。
疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取ることでしょう。

この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりで達成された経済発展は、大変に著しいものです。
そのことは、住民の繁栄の増大として、政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が、1896年の2,711,822円から1903年の12,738,587円へと、ほぼ10倍に拡大していることから、見て取れます。
主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円へと、4年でほぼ3倍に伸びました。

しかも、一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するために、不当な圧政が行われたことは、これまでにいちどもありません。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然のことといえます。
1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加しています。

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昭和天皇大東亜戦争開戦の詔勅に、
「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである」という一文があります。

上のニューヨーク・タイムスの記事は、その陛下のお言葉通りの統治が台湾で行われたことを物語っているといえます。
このことは満州も同じでしたし、パラオなどの南洋諸島インドネシア朝鮮半島も同じです。

日本が統治したそれぞれの外地は、みな等しく、社会的インフラが整備され、社会資本と社会制度が整い、教育が充実し、瞬く間に近代化し、農産物等の生産高も飛躍的に伸びています。

英国はインドをはじめ、世界各国を統治したけれど、その国の民衆は貧しいままに置かれていた。
アメリカは、フィリピンを戦後もずっと統治したけれど、現地の人々はずっとずっと貧しいままでした。
五族共和とか、八紘一宇とかいうと、いまどきの人は、右翼だの軍国主義的発想だのというけれど、ぜんぜん違います。
まさに万国共栄を、そのまま実現しようとしたのが日本です。

世界の歴史をひもといて、他国に行き、他国を統治して、これほどまでにその国の発展に寄与した国家が、歴史上、日本のほかにあったでしょうか。
戦前の日本の軍人さんも、軍族も、民間人も、みんなこういう理想のもとに働いたから、理想があったから、そして実績があったから、それを正しいと信じたし、命がけで戦うこともできたのです。

このブログで、なんども書いているけれど、戦前の日本の軍人さんや軍族、民間人すらも、命を捨ててまで戦うことができたのは、なにも、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからでも、上官の命令があったからではないのです。

左翼や在日系の人は、命令だけすれば人は動くものだと勘違いしています。
ぜんぜん違います。
ひとりひとりの人生の目的と、国家の進むべき道が一体となっていたからこそ、諸国の繁栄があったし、日本の兵隊さんが強かったのです。

日本の兵隊さんといえば、昔はとにもかくにも白兵戦となったら日本兵に勝てる国はないとまで言われたものです。
米軍は、そのためにたいへんな物量作戦で白兵戦となることを避けようとしました。
日本軍に斬り込まれたら、勝ち目がなかったのです。
そのくらい日本の兵隊さんは強かったのです。

どうしてそんなに強かったのでしょうか。
たとえば拉孟の戦いで活躍した九州の「龍兵団」は、日本軍最強とまで言われる軍団です。
なぜ日本軍最強かというと、軍団の中に柳生新陰流免許皆伝の猛者がいて、陸軍内の銃剣術試合で毎度優勝をさらっていたからです。
けれど、だからといって「龍兵団」の全員が猛者というわけではありません。
みんな徴兵兵なのです。
普段の生活は、そこらのお兄さんやおじさんです。

けれど、この「龍兵団」を含む1200名の日本軍が、なぜ国民党軍の5万の最強軍団を相手にして陸戦で120日間も持ちこたえることができたのかといえば、特定のひとりの才能や能力の問題ではなく、全員が日本を守るために、強い責任感を持って戦ったからだとわかります。
個々の兵の強さというのは、実はひとりひとりの勇気や武術の能力や気迫以上に、責任感の有無、もっというなら、自分の責任を果たそうと言う気持ちと、国家や軍の目標がひとつに融け合っていたからこそ、日本軍は強かったのです。
でなければ、とうの昔にみんな逃げています。

人は命令で動きます。
しかしそれだけでは、画竜点睛を欠くのです。
そこに入る瞳は、まさに国家国民が一丸となって「正しきを行う」おうとした、まさにそのことを指すのだと思います。

台湾は、もともと国境などなかった縄文時代には海洋民族として日本人と一体だった人たちです。
あとから大陸からわたって行ったならず者もいましたが、台湾の村人たちの強さに、たいていは退治されています。
世界中の人たちから「ならず者」と言われていたもともとの台湾の人たちにとって、よそ者の横暴から勇気を持って村を守ることは、まさに責任そのものであり、村の目的でもあったわけです。

そういう人たちだからこそ、日本の統治をちゃんと理解し、そして最後には進んで日本人となってくれました。
そして当時を知る台湾のお年寄りたちは、いまも自分は誇りある日本人であるという強い信念に支えられて生きています。


ねずさんのひとりごとより