俺は漢になりたい

俺は生き残れるのか?本当の漢なのか?

昭和天皇


昭和天皇


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お腹を空かせた者がいたら、パンを与える。
けれどそれでは一時しのぎにしかならない。
なので、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのがより良いことだ、そんな話を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。

だけど日本には、それ以外の第三の道がある、というお話しです。



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昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。

その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。

そこで昭和24年5月に、陛下の佐賀県行幸のときのお話しを、書いてみたいと思います。


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昭和天皇行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。

この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。


この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。

しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。


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当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価も高騰する。

お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。

そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなとき、陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということだったのです。

国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えよう。」
と、全国を回られたのです。

ところが、共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていた。

そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを、佐賀のケースで見てみようと思うのです。

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陛下が佐賀県行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。

因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。


 やすらかに
  眠れとぞ思う きみのため
   いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん
  ことのはもがな たたかいの
   にはを偲びて すぐすやからを


というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。

また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。

陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。


image天皇陛下によく似ている
賢明な皆様は気がついている


群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがった。

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみます。
一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立つ。
そのあとから、陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがります。

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まったといいます。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込んだ。

お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていた。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。
その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。


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陛下が寺の山門に到着します。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。

そうです。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。

陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。


「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」


そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分は、あんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ます。
そして書いてある奏上文を読み上げた。


「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」


住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げた。

ところが、ここまで読み上げたところで、住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。


引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのだそうです。

意識は、懸命に文字を探そうとしている。
けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまった。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じた。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

このとき、住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にない、と思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。


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こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在なのですが、帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しいともうされるのだそうです。

この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。

特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。

むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。

さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。

この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。


「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」
と住職に申された。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。


ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。

「どこから?」
満州から帰りました」
北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に

「大切に病を治すように希望します」
と申された。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、

「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。


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それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、

「お父さん? お母さん?」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」
とお尋ねになります。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」

この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」
とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい?」
と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。

「どなたが戦死されたのか?」


「息子でございます。たったひとりの息子でございました」

そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」
と頷かれながら陛下は

「どこで戦死をされたの?」


ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
そばにいた者全員が、この様子に涙した。


遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。

そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。


実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。


「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」

陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。

「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
そして、


天皇陛下さま。ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。

しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。

今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」

と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。

「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。

すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。

彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。


いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」
と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」
と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。


 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ



ねずさんより
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このブログの意図はなんなのか?リンク


美智子皇后は何人いるのか?リンク



image美智子様の母親
正田富美子さん よく似ている
当然、抱いている赤ちゃんが美智子様である


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image美智子様秋篠宮殿下 
よく似ている

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現在の美智子様と体格が明らかに違う 
何故か?いつからなのか?


今日も変わらない
コンスの挨拶
変な日本語のコンビニ店員
いつもマスクの街ゆく会社員
一年中風邪をひいているのか

顔を晒す事は恥なのか
最低限の礼儀なのか

顔を見て
嫌事のひとつでも言う方が
愛想があるのではないか

最近やっと
分かった様な気がする

何故
こんなものを日本にバラ撒くのか?

そう、俺たちのモラルを解体してるのだ


テレビからダラダラと流れ続ける
下らない在日の自称芸人

ナ○ポでパチンコに励む輩

イケメン?の俳優さんたち

団体が幾つあるか分からない
秋元の実行部隊

どれが真実か分からない
テレビのニュース

日本人が古来から持つ礼節
他人を思いやる気持ち
恥を嫌う国民性

もう外圧に対抗する気も無い
今の安倍内閣
日本を解体する為だけの政府

日本人を常に脅えさせる
毎度の人工地震
ゲリラ豪雨
放射能

毎度
天皇陛下を貶める
記事を書き続ける
さゆ、RAPT、その他の面々

簡単な事だ
誰も天皇陛下を神だとは
思っていない

でも
天皇制を認め
ひとつになってきた
過去の日本人

天皇陛下を貶め
天皇制を解体すれば

日本人はまた
心をひとつにし
戦う事が出来るのか?
誰も戦争など望まない

国を愛し
子どもを愛し
未来の日本を
憂う心

社会的弱者を
救う心意気

スマホでは無く

泥だらけで
あそぶハナタレ小僧

ゴム跳びで遊ぶ
少女たち

真夏の夕暮れの
縁側将棋

現場でビールはダメなのか

小洒落たバーで
ワインを飲めというのか

俺たちは
何をなくしたのか?

本当はなくしていないのか?


見えてくる
ひとつの結論

どうすれば
本来は誇り高き
日本人から

魂を濁らせ
自尊心を崩壊させ

自分勝手な
傲慢なあの国の様に
出来るのか?

在日に支配されている
日本国政府
日本を護る気など
さらさら無い

天皇制を
破壊したい勢力
護る人たち


そこに
天皇陛下がいる

それが答えだ

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image日本画の様な
純和風美人の香淳皇太后


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image今上天皇美智子様の血は
途絶えていない
正当なる血統は
顔を見れば明らかだ

皇室に紛れ込んだ
美○○様と浩○殿下は偽者だ
影武者に騙されるな


玄人裸足の香淳皇太后の日本画リンク



皇室ブログは真実もあるが
嘘も多い

日本に何故
天皇制が必要なのか

もしくは必要無いのか

もし天皇制が悪ならば

昭和天皇
全国行幸の意味は

奴らが
日本人を怖れる理由は

ここにあるのではないのか


速くて安定オススメです!
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岩崎ゆき


岩崎ゆき




岩崎ゆきと従軍看護婦のはじまり



NURO Mobile


この記事は、昨年9月にこのブログでご紹介した記事です。

このときご紹介した
「岩崎ユキの遺書全文」は、ネット上で公開されるのは、たぶんそれが本邦初のことと思います。

私は、この岩崎ユキという、わずか17歳の少女の「覚悟と死」を知ったとき、そのとき人前だったのだけれど、あふれる涙を止めることができませんでした。

そしてこの遺書は、私たちに、とても大切なことをいろいろと教えてくれています。

そこで、今年もまた、この遺書のご紹介を
したいと思います。

はじめに経緯を簡単に書いておきます。
明治27(1894)年8月1日、日本と清国の双方の宣戦布告によって「日清戦争」(〜1895)が勃発しました。

このとき、臨時の戦争指揮所として、明治天皇の御在所が、広島に移りました。

これが「大本営」のはじまりです。
このとき国会議事堂も、広島に移っています。

日清戦争のために出征した日本の将士は
総計30万人です。

広島の宇品の港には、軍船がひっきりなしに往来しましたが、こうした大兵の往復海運の最大の問題は「衛生」です。

まして戦争となればこれに戦傷病者が加わります。

実際の戦争では、戦死や戦傷よりも、病人の方が、何倍も多いのです。

まして当時の支那は、衛生環境が劣悪で、コレラ赤痢、疱瘡その他、伝染病の問屋街でした。

このため同年7月20日には、広島城の西側にあった広島衛戍病院も、戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。

そして実は、この広島陸軍予備病院が、日本ではじめて女性が従軍看護婦として採用された病院です。

医師に看護婦という組み合わせは大昔からあったのですが、戦は男がするものです。

ですから我が国においては古来戦場に出向くのは医師も看護人も、すべて男でした。

このことは、明治維新の際の戊辰戦争や、その後の西南戦争佐賀の乱等においても同じですし、戦国時代にも、またそれ以前の時代においても同じです。

医師も看病人も、すべて男で構成していました。



もともとは西洋においても、戦病傷者の看護は、男性の役割で、これには主に男性修道士たちが奉仕活動の一環として病院の看護を行っていました。

有名なところでは、十字軍の遠征に際して、修道士看護団が編成されています。

彼らは十字軍の遠征に参加し、宗教行事を主催しながら、慈善活動として療養所の運営をしていたのです。

ちなみにいまでも看護婦さんたちは、ナースキャップをかぶりますが、これは修道士がかぶっていたベールが変化したもの、ナース服も、そのデザインのルーツは修道衣です。

ところが1853年のクリミア戦争のとき、フローレンス・ナイチンゲールが38名の女性を引きつれて戦地に入り、このことがきっかけとなって1860年には、ロンドンに世界最初の看護学校が開かれるようになりました。

こうした西洋の波を受けて、日本でも1877年(明治10年)には博愛社が設立され、1888年明治21年)にはジュネーブ条約加盟に伴って、博愛社日本赤十字社と名称変更となり、看護婦の育成が行われるようになりました。

ちなみにその明治10年西南戦争のとき、手塚治虫の祖父の手塚良仙が、軍医として赴任し、戦地で赤痢にかかってお亡くなりになっています。

このときの手塚良仙は医師として赴任していますが、看護師はもちろん全員男性でした。

ところが日清戦争の頃になると、国をあげての戦いということもあって、日本赤十字社から「女性看護婦を是非とも軍で採用してもらいたい」という強い要請が出るようになりました。

陸軍は、当初これを固く断りました。
この理由がたいへん興味深いものです。

ひとつは予算の問題です。
当時の日本はまだまだ貧しく、軍も予算がギリギリです。

先日も「竹橋事件」の記事でご紹介しましたが、西南戦争の論功褒章も遅れがちだったくらいなのです。

それが、わずか7年後の1894年(明治27年)には、もう日清戦争なのです。
とにかくお金がない。

そこに軍病院に女性看護婦を採用すると、男たちとは別に、着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレにいたるまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければならなくなるわけです。

それだけ予算が余計にかかる。

これは困った事態です。

ふたつ目の理由は風紀です。

戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて、万一風紀上の悪評でもたてられようものなら、せっかくの戦功がだいなしです。

今風にいうならセクハラ問題ですが、セクハラというのは、男性が女性に行うセクハラもあれば、女性が男性に行うセクハラもあるわけです。

当時の日本は大家族制の村社会です。

戦地にあって、立派な軍功を立てたとしても、女性に手を付けた、あるいは女性問題が起きたというだけで、二度と故郷の土を踏めなくなる。

これは大問題です。

さらに、当時の施政の基本的考え方が「明察功過」です。

これは聖徳太子の十七条憲法に由来します。
人の上に立つ者は、事件や事故が起こらないように未然に察して手を打つ。

それが人の上に立つ者の仕事と考えられていたし、そのためにこそ上位者には権限が与えられていると考えられていました。

ですから万一、部下に女性問題が起きれば、上官(上位者)は、一蓮托生で、責任問題となりました。

人の上に立つということは、権限があるということです。

そして権限があるということは、当然、責任があるということです。

部下が女性問題でトラブルを起こせば、それが仮に恋愛の上での行為であったとしても、強姦罪として処罰されたし、その処罰は、犯行に及んだ当人だけではなく、その上官まで隊を除隊になるという厳しい処罰が待っていたのです。

あたりまえじゃないかと思われる人がいるかもしれませんが、それこそ非常識です。

たとえば近時、川崎で中一児童が殺害されるという事件がありましたが、いまの日本では、施政者側で責任を取る人は誰もいません。

しかしこれが江戸の昔なら、川崎の町奉行切腹です。

悲惨な事件や事故が起こらないようにするために、奉行としての全権が与えられているのです。

にも関わらず事件事故が起きれば、それは当然奉行の責任であるし、そうであれば自ら腹を斬るのが常識だったし、もし、自分で腹を斬らず、江戸表から使者が来て上意で切腹となれば、そのお奉行はお家断絶です。

明治初期は、四民平等となり、農民や町民が軍の役職に就くようになったため、明治政府も切腹までは求めなくなりましたが、それでもクビは当然と考えられていましたし、ひとたびクビになれば、故郷の土を踏めなくなるし、二度と親に顔向けできなくなったのです。

事件や事故が起こらないようにするために権限はあります。

ですから起きたなら、当然にその責任をとることがあたりまえです。

けれど昨今の日本では、あれだけの事件が起きても、施政者側に誰も責任を取る人がいません。

切腹しろとまでは言いませんが、権限と責任の関係が曖昧になっているのが、いまの日本です。

さて、上述のような内容で、軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた日本陸軍でしたが、やはり看護ということになると、少々取り扱いが厳しい男性よりも、女性の方がありがたいという側面もあります。

そこで陸軍の石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が、
「風紀上の問題は私が責任を負う」
と明言することで、ようやく、まずこころみとして、少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用してみることになりました。

ただしこれには条件がありました。

女性は40歳以上であること。

そして樺山資紀(かばやますけのり)海軍軍令部長婦人、仁礼海軍中将夫人らが看護婦たちと起居をともにし、また看護婦らの安全をはかり、また夫人らも一緒に看護活動にあたることとされました。

このときNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』の新島八重も赴任しています。

半年が経ちますと、女性看護婦がたいへん評判が良い。

しかも患者の数は日々増えていきます。

そこで篤志看護婦人会員の若い女性たちが、徐々に「看護婦の助手」として広島陸軍予備病院に送られるようになりました。

その中のひとりが、日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ17歳になる「岩崎ゆき」です。

派遣され、赴任したのが1894年(明治27年)11月7日です。

彼女は、伝染病室付となりました。

そして勤務中に、気の毒にチフスに感染して死亡してしまうのです。

1895年(明治28年)4月8日発症、25日没です。

岩崎ユキが亡くなった後、その荷物の中から遺書が発見されました。

そこには次のように書かれていました。


******


お父さま、お母さま、
ゆきは大変な名誉を獲得いたしました。
家門の誉れとでも申しましょうか。
天皇陛下にゆきの命を喜んで捧げる時が
来たのであります。
数百名の応召試験の中から、
ゆきはついに抜擢されて、
戦地にまでも行けるかも知れないので
あります。

ゆきは喜びの絶頂に達して居ります。
死はもとより覚悟の上であります。
私の勤務は救護上で一番恐れられる
伝染病患者の看護に従事すると云う
最も大役を命ぜられたのであります。

勿論予防事項については充分の教えは
受けて居ります。
しかし強烈あくなきばい菌を取扱うので
ありますから、
ゆきは不幸にして何時感染しないとも
限りません。

しかし、お父さま、お母さま、
考えても御覧下さい。
思えば思う程この任務を命ぜられたのは
名誉の至りかと存じます。
それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の
苦戦地に闘うのと同じであるからであります。

戦いは既にたけなわであります。
恐ろしい病魔に犯されて
今明日も知れぬと云う兵隊さん達が
続々病院に運ばれて来ます。

そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して
呉れろと譫言にまでどなって居ります。
この声を眼のあたりに聞いては
伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち
消し飛んでしまいます。
早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。
感激と申しましょうか、
ゆきは泣けて来て仕方がありません。

今日で私の病室からは十五人もの兵士達が
死んで行きました。
身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな
眠りであります。
また中には絶叫する兵士達もありました。

「死は残念だぞ!
 だが死んでも護国の鬼となって
 外敵を打たずに済ますものか」と
 苦痛を忘れて死んでいったのです。

あるいは突然「天皇陛下万歳!」と叫ぶので
慌てて患者に近寄りますと、
そのまま息が絶えていた兵士達もありました。

しかも誰一人として
故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで
逝ったものはありません。

恐らく腹の中では飛び立つほどに
故郷の空が懐かしかったでありましょう。
ただそれを口にしなかっただけと思われます。
故郷の人達は、彼の凱旋を、
どんなにか指折り数えて待っていたことで
ありましょう。

悲しみと感激の中に、私はただ夢中で
激務に耐えて居ります。
数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるので
ありますが、
ゆきの頭脳にはこうした悲壮な光景が
深く深く焼きついていて、
寝ては夢、醒めては幻に見て、
片時たりとも心の落ちつく暇がありません。

昨日、人の嘆きは今日の我が身に振りかかる
世のならいとか申しまして、
我が身たりとも、何時如何なる針のような
油断からでも
病魔に斃されてしまうかも解らないので
あります。

しかしゆきは厳格なお父様の教育を受けた
娘であります。
決して死の刹那に直面しても
見苦しい光景などは残さない覚悟で居ります。

多くの兵士達の示して呉れた
勇ましい教訓通りにやってのける決心で
あります。
決してお嘆きになってはいけませぬ。

男子が御国のために名誉の戦死をしたと
同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

*******


岩崎ユキ


岩崎ユキは、明治10年12月23日の生まれです。

この時代、看護婦になるというのは、たいへんに狭き門でした。

まず看護学校に入学することが、たいへんなことでした。

よほど成績優秀、身体頑健、性格良好でなければ、まず受からない。

そして受かったあとの看護婦教育がまたたいへんでした。

全寮制で学ぶのですが、「明日の朝までにこれこれの資料を読んでおくように」と、教官から予習を命ぜられるのですが、それが本をまるごと二三冊だったりするわけです。

ところが寮は消灯時間が決められていて、夜10時には電気が消されてしまう。

もちろん、時間以降は、宿所内でろうそくの使用も禁止です。

ところがそれでは勉強が追いつかない。

そこで、寮内で唯一明かりのある便所にこもっり、交代で勉強をしたそうです。

彼女たちは、そこまで努力をして看護婦になりました。

明治27年10月10日に、日本赤十字社京都支部の看護婦として採用になり、11月4日に召集されました。

そして救護団に編入し、11月7日に広島陸軍予備病院第三分院付きとなります。

チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか5ヶ月後の明治28年4月8日のことでした。

そしてその17日後の4月25日にお亡くなりになっています。

そして昭和4年4月13日、靖國神社に合祀されました。

この遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲皇后陛下にもお涙を催させ給うことになりました。

女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴いている。

岩崎ゆきのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。

そして陸軍が正式に女性看護婦を採用したのは、この25年後の大正8年、そして陸軍の養成看護婦は昭和19年のことです。

日清戦争当時、我が国では広島予備病院の他、各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦を付け、また赤十字社病院船博愛丸、弘済丸はもちろん、そのほか各臨時にできた病院船にも、また海軍病院にも看護婦が付けられました。

そしてこれら女性看護婦の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。

まったく軍の医療施設に女性看護婦を配置できなかったのが、きわめて短期間の間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争第一次世界大戦支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して、戦傷病者の看護にたいへん大きな貢献をするに至りました。

そしてその背景には、当時若干18際の岩崎ゆきの覚悟と死があったのです。

男だけでなく、女達も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。

そしてその日本があったからこそ、世界に500年続いた植民地支配という収奪が終焉を迎えたのです。

私達はそんな曾祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、いまの命をいただいています。

そのことを、もういちど、しっかりと胸に焼き付けたいと思います。







最後にもうひとつ、友人の言葉を掲載します。

****

10年後の日露戦争時に、中学生くらいの女の子が、
「2人の兄は出征しました。
 女の私でも、何かお国のためにできることは
 ないかと考えましたが、
 看護婦にでもなろうかと思います。
 どうか私を看護婦にしてやって下さい」
陸軍大臣寺内正毅に書いた手紙をどこかで見たことがあります。

国家の一大事に臣民の一人一人がどう考えていたか。

洗脳教育とかいう輩には永久に理解できないですね。

「子供たちが戦争に行かされる!」と声高に騒ぐ輩が、
「私が命に代えても子供を守る!」とは、絶対に言わないですものね。

自分だけ安全な場所にいて、口ばかりの輩に聞かせたいです。


みなさんは、何をお感じになりましたか?


お読みいただき、ありがとうございました。


ねずさんより
画像、リンクは追加しています。


靖国に祀られない看護婦たち リンク



平和ボケした
自称近代国家

街ゆく人たち
ここにミサイルが
降って来たら

俺たちは
逃げ惑うのか

添加物と
ケムトレイル
栄養満点の
とある国

下らない
セミナーに
参加しろと
喚く詐欺師に
巻き上げられる
とある国民

自分で考え
自分で
決めているのか

散華した魂は
こんな国を
望んでいるのか


俺は何者なのか

あなたは何者なのか
















インパール作戦


インパール作戦



牟田口 廉也中将
インパール作戦を指揮















あまりにも不自然な作戦


大東亜戦争の末期、昭和十九年三月から六月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。

けれど補給の不備で攻略を果たせず、空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却しています。

この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリア赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。

沿道には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、その街道は「白骨街道」と呼ばれています。

このとき生還した兵の記録に次のようなものがあります。

****
道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。

そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。

また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

地獄とは、まさにこんなところか......。

その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

そのような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。

それをたどって行けば、 細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。

この道標を頼りに歩いた。

(『ビルマ最前線』小田敦巳)



イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。

死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。

こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。

負ければ賊軍は世の習いです。

しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。

むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶか」が大切なことだと思います。

そういう姿勢でこの作戦を見ていくと、驚くべき事実や不思議な出来事が浮かび上がるように、はっきり見えてくるのです。


インド兵を温存せよ


昭和十八年九月の御前会議で、絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。

インパール作戦は、その基本戦略に反しています。

なぜなら、国防圏の外側にあるインドに、撃って出ようというのです。

どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。



しかも、はじめは反対していた大本営も、当時日本に滞在していたインドの独立運動家、チャンドラ・ボースの強い要請を受けて、作戦の実施を認めたといいます。

もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。

守るイギリス軍は15万です。

攻める日本軍は9万です。

亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。

ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。

数で劣る日本軍は不利です。

ところが実は、ほかにインド国民軍四万五千がいたのです。

この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。

ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという 六千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。

普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。



これはインド独立のための戦いなのです。

インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。

ところが日本軍はそうしませんでした。

むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。

戦闘 のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。 

だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。

日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。

こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。

下級将校クラスであれば、当然
そのくらいのことは考えていたはずです。

末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。

果たして遠からずインドは独立しました。
その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間 近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。






インド解放のため死しても戦う


驚くことに、こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かったのです。

インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。

しかし、日本軍は戦闘のプロです。

作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。

ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。

後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。

その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。

一人も降伏しない。

誰も勝手に退却しない。

敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。

そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。

前半戦は勝っていたのです。

食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。

有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。

戦いの二カ月というのはものすごく長い期間です。

相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。


世界最高の軍紀を誇った日本軍


さらに日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。

餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。

すでに何日も食べていない。

負傷もしている。

病気にも罹っている。

そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていないのです。

これは普通では考えられないことです。

銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。

戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。

それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。

戦後、実際にインパール作戦に従軍された方々によって、たくさんのインパール戦記が刊行されたけれども、驚くことは、民家を襲わなかったことを誇る記述を、誰一人として残しておられないということです。

戦争に関係のない民家を襲わないなんて「あたりまえ」のことだったからです。

むしろ、退却途中でビルマの人に助けてもらった、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多い。

それが日本人です。

そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。



勝利を祝わなかったイギリス軍


この戦いはイギリス軍15万と日本軍9万の大会戦です。

有名なワーテルローの戦いフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万だから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。

にもかかわらず、不思議なことにイギリスは、このインパールの戦いの勝利を誇るというこをしていません。

戦いのあとインドのデリーで、ゴマすりのインド人が戦勝記念式典を企画しました。

けれどイギリス軍の上層部は、これを差し止めたと伝えられています。

なぜでしょうか。

理由は判然としません。

しませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となく分かる気がするのです。

それは、「第一線で戦ったイギリス軍は、勝った気がしなかった のではないか」ということです。

自分たちは野戦食としては満点の食事を取り、武器弾薬も豊富に持ち、必要な物資は次々と補給される。

そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。

それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しもどこか負傷し、そして弾の入っていない銃に着剣して、殺しても殺しても向かってくる。

それが何と自国のためではなく、インドの独立のため、アジアの自立のためです。

そんな戦いが六十日以上も続いたのです。

ようやく日本軍の力が尽き撤退したあとに、何万もの日本兵の屍が残りました。

それを見たときにイギリス人たちは、正義はいったいどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることが果たして正義なのかどうか......。

魂を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。

実際、インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっています。

やる気がまるで感じられないのです。

ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。

以前のイギリス軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を撃ち込むくらいのことは平気でした。

そして、戦後の東京裁判でイギリスは、インドがパール判事を送り、パールが日本擁護の判決付帯書を書くことについて口を出していません。

そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。






「分かる」ということ


唯物史観という言葉があります。

犯罪捜査と同様の手法で歴史を観ていく考え方で、すべては証拠に基づいて判断する、状況証拠は証拠にならない、というものです。

けれど、日本の歴史というのは、むしろ書いてあることは「......と日記には書いておこう」という程度のものが多いのが実際です。

たてまえ 建前上のことを文字にして残し、その実情や心は、分かる人には「分かる」ようにしておく。

それがあたりまえのように行われてきたのが、日本の歴史です。

血の通った人間が、悩み苦しみ、決断して行動し、時には死を賭して戦い、そういった人生がいくつも重なりあって歴史という大きなドラマは紡がれているのです。

多層織りなす歴史を 単なる記録として扱ってしまえば、そこから学ぶものは血が通わない無機質な、実際には役に 立たない知識ばかりになってしまいます。

「分かる」ということは、たんに書いてあることを覚える、知るということとは意味が違います。

歴史の奥に隠された先人の意志や心情にまで思いを馳せることで、歴史は色彩豊かな世界を私たちに見せてくれ、真に役立つ知識を授けてくれるのだと思います。





************

本の記述はここまですが、少し補足したいと思います。

インパールに限らず、この時代、日本軍の兵となっていた者の多くは、20代前半の独身男子です。

その全ての兵に親がおり、その親にしてみれば、ひとりひとりが出征したかわいい我が子です。

それだけではありません。

当時の徴兵には、必ず徴兵検査がありました。

そして兵役にとられるのは、甲種合格者です。

甲種合格というのは、身体頑健、成績優秀な若者です。

虫歯があってもダメ、視力が足りなくてもダメ、痔が悪くてもダメ、喘息もダメ、性格がひねくれていてもダメ、不良などは絶対にダメでした。

ですから甲種合格者というのは、健康な男子20名に1人の割合です。

このことはつまり、親の目から見たら、まさに自慢の息子、目に入れても痛くないほど前途ある優秀な、周囲に誇れる、誇らしい我が子ということになります。

その子が、戦地において、飢えて死んだのです。

しかも、その亡くなった街道の両脇は農村地帯であり、畑にはたわわに作物が稔り、牛などの家畜も飼育されていた。

親の気持ちとしては、「たとえ大根一本盗んででも、なんとか飢えをしのいで祖国に帰ってきてほしかった」と思うのが親の情です。

けれど彼らは、その盗みをしなかったのです。
体はマラリアに冒されて高熱を発し、満身に銃創や擦過傷を負い、携帯口糧も底を尽きています。

手には、銃があります。

銃の先には、銃剣も付いています。

村人を襲えば、いくらでも食べ物が手に入る。

襲わなくても、道の両脇には食べ物が稔っている。

それでも彼らは、盗んだり襲ったりすることはありませんでした。



なぜなら彼らは、皇軍兵士だったからです。
純潔の思いで国を愛し、東亜幸福の夢と願いを持ち、世界の人々のまごころを信じ、胸の底に輝く栄光を持っていたからです。

インパールの戦いに参戦した日本軍兵士は92,000人です。

内死者が38,000人、戦病者40,000人です。

戦友たちの骸が累々と横たわる。

何日も水も食べ物も口にしないまま、仲間たちが死んでいく。

それでも、彼らは、胸の誇りを失わなかったのです。

インパールの戦いといえば、「無謀な作戦だった」とか、「牟田口中将が馬鹿だった」とか、そんな話しか出てきません。

もちろん負け戦ですから、軍事的な意味での反省と総括は必要なことだろうと思います。

けれど、それは軍事のご専門の方々にとって必要なことであって、私たちに必要な情報ではないと思います。

そんなつまらない犯人探しより、3万8千人が飢えて死んでいっても、それでも誰一人、日本人として盗みをしなかったという事実を、わたしたちはしっかりと受け止めるべきではないかと思うのです。



インパール作戦の顛末

インパール作戦の投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人という悲惨な結果となった。すなわち事実上の全滅である(ただし、インパールでの犠牲者数は諸説ありよく分かっていない。裏を返せば、自軍の戦死者・行方不明者の数も、ちゃんと把握出来なかった程の末期的状況だったのだ)。彼らは、牟田口・東條をはじめとする陸軍上層部によって殲滅されたと言っても過言でない。インパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。 




ねずさんより
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インパール作戦
父が語る戦争体験記 リンク



集団的自衛権行使
憲法9条の意味は?





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日本が変えた台湾

日本が変えた台湾

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これは1904年のニューヨーク・タイムスの記事をご紹介します。
この年は日清戦争の勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目にあたります。
そしてこの年の2月には日露戦争が勃発しています。

日本による統治がいかに素晴らしかったか。
また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。

元記事は、2009年にブログ「台湾は日本の生命線」さんが紹介してくださったものですが、日本語訳について、ねず式で、すこし読みやすくしています。

ニューヨーク・タイムスの記事
(1904年9月25日)
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Hulu



******
【日本人が変えた未開の島―台湾】
~他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々~
☆他の植民地主義国家への教訓☆
ニューヨーク・タイムス(1904年9月25日)

1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙は、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。

どんな事業でも、成功のためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして「経験」の三要素が必要です。
植民地経営も例外ではありません。
実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しました。
どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいのです。
そういう意味において、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。

日本が最初の植民地とした台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できない困難がありました。
日本統治前の台湾島は、支那やその他様々な国からの無法者が跋扈していました。
野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがありませんでした。
(註:清朝は、台湾のことを「鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女」と蔑んでいました。)

スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。
けれど絶望の内に断念しました。
支那は島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。

未開原住民の懐柔・開化

1894~1895年の日清戦争終結後、日本は台湾の割譲を要求しました。
このとき支那は、喜ばないまでも快くそれに応じました。
李鴻章は「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と、皮肉っぽく論評しています。
(註:清とは清朝で、女真族満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)

日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態でした。
奥地は、野蛮な原住民によって支配されていました。
海岸部は、難破船を分捕ったり、島に漂着した船員たちを殺害することで生きている無法者や盗賊の集団に支配されていました。
実際、台湾が支那領であった頃、外国船船員に対する台湾民たちによる殺戮や攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じています。

1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれました。
支那統治時代の台湾島の管轄者である支那の武官や官僚は、その地位を追われることを恐れて、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者である日本に対する反乱を扇動しました。
日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだのは、ようやく1901年の末頃のことです。
それまで台湾島は、常に不安定で混乱した状態が続いていたのです。

法令施行に於ける寛容さ

台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受しはじめたのは、ようやくこの2~3年のことです。
ところが台湾島の様相、すなわち、すこし前までは未開の民であった台湾の原住民の様子は、180度違うものになっています。
台湾の人々は、日本の法政を理解し、それを賞賛し始めるようになっているのです。

日本が顕著な成功を収めている政策には、次のようなものがあります。

まず日本は、可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することを心がけています。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入しています。
(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えています。)

そしてこれら「成文法」は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用しています。



阿片常用者の治療(漸禁策)

阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。
けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。
日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。
そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。
そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えました。

医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に諭しました。
教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。

台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。

17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。



財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。
なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。
台湾の民衆は、公正な政府の下で自由を謳歌できるようになったのです。

次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされました。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできたのです。
それは澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する極めて質の悪い水が主な原因でした。
そこで日本人は、浄水の供給を始めたのです。

日本が整備した台北水源地一帯
1903年着工~1905年完工
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台湾で掘られた井戸の総数は不明です。
けれど総人口の10分の1が住む台北地域だけでも、800以上もの井戸が堀られました。
(註:台北上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

素晴らしい学校制度の開始

台湾総督府医学校
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教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点です。
日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入しました。
60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する一方、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっています。

しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではありません。
というのは与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからです。
日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立しているのです。

台湾の医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する「極東で唯一の学校」という重要な特徴があります。学校は台北にあり、現時点で約150名の学生が、有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいます。

日本語学校には二つの役割があります。
ひとつの目的は、原住民の間に日本語を広めることです。けれど同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで、彼らが奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもあります。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。

日本語の役割は、
①共通語を持つことと、
②近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段として不可欠であった。
つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であったのである。
総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)

個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよります。
日本は、新植民地の繁栄増進をも、その目的としています。

鉄道網の構築

日本が台湾の割譲を受けた頃には、台湾島に道路は存在していませんでした。
そのくせおかしな話ですが、粗末な建造で、貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道だけは存在していました。
この鉄道は、運賃や貨物運送の時間が、ほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけ運航する列車でした。

日本は台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めました。
米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されています。
そして日本は、同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しています。
これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような大金です。

明治橋
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日本人が当初台湾で見た鉄道は、いまでは完全に整備され、さらに新竹-高尾間の新線建設が、両方のターミナルから同時に全力投球で始まっています。

1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車と機関車20輌が導入されました。
この期間に、運送旅客数は4倍に、そして輸送貨物量は10倍に伸びています。
加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設されました
更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される予定となっています。

台北停車場
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郵便、電信、電話も、既に導入されて、大きな成功を収めています。
1896年から1902年の間に、一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替が発行されています。

台北に置かれた郵便ポストと集配人
(なつかしい赤ポストです)
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電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び、1,350マイルの電話線が敷設され、1902年には3,690,228件の通話が行われました。

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できるようなものはありませんでした。
土地は実り豊かな土地なのです。
けれどその耕作法は、科学的なものはおろか、伝統的・絶対的なものでさえ知られていませんでした。
原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存していたのです。

台湾の農民たちは、米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものとなっていました。
それが日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びています。

農業実験場1903年創設
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同じ期間のお茶の生産量は5倍となり、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せています。
(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌したのである。)

広大な森林の利用も不十分なものでした。
原住民は不経済で、例えば楠(くすのき)から樟脳(しょうのう)を取り出す際に得られた樟脳油は、地元の精製者は廃物として取り扱われていました。


日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は、1897年の1,534,596斤から、1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びています。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれていませんでした。

ところが日本の忍耐強い指導と穏やかな主張により、あらゆる産業において改良手法の導入に成功しています。
農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げています。

銀行・通貨制度

台湾銀行台北総行
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台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになりました。
その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され、より重要な中心部に民間銀行の事務所も開設されました。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めています。
預金者数は、1896年の5,847人から、1902年には41,145人に、預金額は1806年の228,487円から、1902年には763,575円に増大しています。

台湾通貨も改革を必要としていました。
台湾は、ずっと支那と同じく為替の媒体が使われていました。
それは硬貨ではなく、金塊だったのです。
扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引も不可能でした。
今では日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっています。

日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込みました。
粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいます。
疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取ることでしょう。

この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりで達成された経済発展は、大変に著しいものです。
そのことは、住民の繁栄の増大として、政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が、1896年の2,711,822円から1903年の12,738,587円へと、ほぼ10倍に拡大していることから、見て取れます。
主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円へと、4年でほぼ3倍に伸びました。

しかも、一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するために、不当な圧政が行われたことは、これまでにいちどもありません。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然のことといえます。
1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加しています。

******

昭和天皇大東亜戦争開戦の詔勅に、
「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである」という一文があります。

上のニューヨーク・タイムスの記事は、その陛下のお言葉通りの統治が台湾で行われたことを物語っているといえます。
このことは満州も同じでしたし、パラオなどの南洋諸島インドネシア朝鮮半島も同じです。

日本が統治したそれぞれの外地は、みな等しく、社会的インフラが整備され、社会資本と社会制度が整い、教育が充実し、瞬く間に近代化し、農産物等の生産高も飛躍的に伸びています。

英国はインドをはじめ、世界各国を統治したけれど、その国の民衆は貧しいままに置かれていた。
アメリカは、フィリピンを戦後もずっと統治したけれど、現地の人々はずっとずっと貧しいままでした。
五族共和とか、八紘一宇とかいうと、いまどきの人は、右翼だの軍国主義的発想だのというけれど、ぜんぜん違います。
まさに万国共栄を、そのまま実現しようとしたのが日本です。

世界の歴史をひもといて、他国に行き、他国を統治して、これほどまでにその国の発展に寄与した国家が、歴史上、日本のほかにあったでしょうか。
戦前の日本の軍人さんも、軍族も、民間人も、みんなこういう理想のもとに働いたから、理想があったから、そして実績があったから、それを正しいと信じたし、命がけで戦うこともできたのです。

このブログで、なんども書いているけれど、戦前の日本の軍人さんや軍族、民間人すらも、命を捨ててまで戦うことができたのは、なにも、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからでも、上官の命令があったからではないのです。

左翼や在日系の人は、命令だけすれば人は動くものだと勘違いしています。
ぜんぜん違います。
ひとりひとりの人生の目的と、国家の進むべき道が一体となっていたからこそ、諸国の繁栄があったし、日本の兵隊さんが強かったのです。

日本の兵隊さんといえば、昔はとにもかくにも白兵戦となったら日本兵に勝てる国はないとまで言われたものです。
米軍は、そのためにたいへんな物量作戦で白兵戦となることを避けようとしました。
日本軍に斬り込まれたら、勝ち目がなかったのです。
そのくらい日本の兵隊さんは強かったのです。

どうしてそんなに強かったのでしょうか。
たとえば拉孟の戦いで活躍した九州の「龍兵団」は、日本軍最強とまで言われる軍団です。
なぜ日本軍最強かというと、軍団の中に柳生新陰流免許皆伝の猛者がいて、陸軍内の銃剣術試合で毎度優勝をさらっていたからです。
けれど、だからといって「龍兵団」の全員が猛者というわけではありません。
みんな徴兵兵なのです。
普段の生活は、そこらのお兄さんやおじさんです。

けれど、この「龍兵団」を含む1200名の日本軍が、なぜ国民党軍の5万の最強軍団を相手にして陸戦で120日間も持ちこたえることができたのかといえば、特定のひとりの才能や能力の問題ではなく、全員が日本を守るために、強い責任感を持って戦ったからだとわかります。
個々の兵の強さというのは、実はひとりひとりの勇気や武術の能力や気迫以上に、責任感の有無、もっというなら、自分の責任を果たそうと言う気持ちと、国家や軍の目標がひとつに融け合っていたからこそ、日本軍は強かったのです。
でなければ、とうの昔にみんな逃げています。

人は命令で動きます。
しかしそれだけでは、画竜点睛を欠くのです。
そこに入る瞳は、まさに国家国民が一丸となって「正しきを行う」おうとした、まさにそのことを指すのだと思います。

台湾は、もともと国境などなかった縄文時代には海洋民族として日本人と一体だった人たちです。
あとから大陸からわたって行ったならず者もいましたが、台湾の村人たちの強さに、たいていは退治されています。
世界中の人たちから「ならず者」と言われていたもともとの台湾の人たちにとって、よそ者の横暴から勇気を持って村を守ることは、まさに責任そのものであり、村の目的でもあったわけです。

そういう人たちだからこそ、日本の統治をちゃんと理解し、そして最後には進んで日本人となってくれました。
そして当時を知る台湾のお年寄りたちは、いまも自分は誇りある日本人であるという強い信念に支えられて生きています。


ねずさんのひとりごとより










北方領土は要りません by鳩山

北方領土と我が国主権のお話


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今日の記事は産経デジタルにも掲載されています。
http://ironna.jp/article/2746


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北方領土は、日本の領土です。


歯舞群島色丹島国後島択捉島のことを言っているのではありません。
樺太の南半分と、千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部が、日本の領土です。
ということは南樺太から千島列島にかけてのオホーツク海と、千島列島から南東に張り出した太平洋の広大な海域が、日本の領海です。

そういうと「ああ、戦前の話か」と思う方もおいでになるかもしれません。

いいえ違います。
すくなくとも「ほんの6年前まで」、樺太の南半分と千島列島全部は、日本の課税台帳に記述があったのです。
課税台帳に記述があったということは、日本政府が「ほんの数年前まで」そこを「領土」として認識していた、ということです。
ところが数年前、そこが領土から「消えて」しまいました。

すこし詳しく述べます。


平成22(2010)年3月31日まで、日本は札幌国税根室税務署の課税台帳には、樺太の南半分と千島列島全部について、日本の領土としての記述がありました。
つまり日本は、そこを日本の領土として認識していたということです。
(ロシアは一方的に占領支配していただけです。)

ところが、2009年夏、民主党が政権与党となり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。
鳩山内閣は国民に何も知らせないまま、
北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例
財務省組織規則の一部を改正する省令」を改正し、南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除してしまったのです。

ですから平成22(2010)年4月1日からは、この広大なエリアは、日本国民が知らない間に、ロシアが占領し軍事的に実効支配する無主地となってしまいました。
ひどい話です。

領土に関する話です。
本来なら国会審議が必要なことでしょう。
けれど当時の民主党鳩山総理は、国会審議を要しない「省令」レベルで、北方領土を勝手に日本の領土から外してしまったのです。

こんなことが許されるのなら、たとえば竹島にしても韓国が実効支配し、日本が課税台帳から削除すれば、国民が誰もしらないまま、竹島とその周辺海域は日本の領土から消えてなくなります。

そこで今日は、領土についてすこし詳しく見て行きたいと思います。
このことを考えると、実はいろいろなことがはっきりと見えてきます。

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千島列島の夏

まず千島列島は、北海道の東側にある知床半島根室半島の先から、ユーラシア大陸カムチャッカ半島まで伸びている列島です。
一番北側の島々が北千島、まんなかあたりが中部千島、北海道寄りの歯舞群島色丹島国後島択捉島が、南千島です。

北方領土」というと、多くの方がイメージしているのは、このうちの南千島歯舞群島、色丹、国後、択捉)です。
けれど本当は、千島列島の「全部」が日本の領土です。

それだけではありません。
樺太も南半分は日本の領土です。
そして、そこに日本の領土があるということは、その周辺の広大な海域が日本の領海である、ということです。

近年、その領海の海底には、豊富な海底資源(メタンハイドレードレアアース)が眠っていることが明らかになりました。
従ってその広大な海域は、豊富な漁場としての値打ちを持つだけでなく、これからの日本や世界の資源エネルギーを語る上でもとても大切なエリアとなっています。

さて、南千島だけでなく樺太や北千島までと書くと、
「そんなことはない。昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島と樺太の南半分を放棄したではないのか」とおっしゃる方もおいでになるかもしれません。

なるほどサンフランシスコ講和条約で、日本はこのエリアに関する「すべての権利、権原及び請求権を放棄」しました。
講和条約の第二条Cには、次のように記載されています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「権利、権原及び請求権を放棄する」というのは、日本が当該エリアの領主としての権利、日本がその権利を得ることになった原因となった権利、および、そのエリアに関する租税等の請求権を放棄する、ということです。
このことは、ものすごく簡単に詰めていうと、領土としての「処分権」を放棄した、ということです。

ちなみに「処分権を放棄」することは、「主権を放棄」することと、まったく意味が異なります。

わかりやすくたとえていうと、Aさんが自分が所有している(主権を持っている)携帯電話の処分を、Bさんに委ねたとします。
そのとき携帯電話は、
Aさん=所有者
Bさん=処分権者です。
Bさんが処分先をCさんと決めれば、Aさんは約束通りCさんに携帯電話の所有権移転の契約を締結し、携帯電話はCさんのものとなります。

領土の場合は、これを「割譲」といい、「割譲」には割譲するための「条約の締結」が必要です。
条約によって、晴れてその領土はCさんのものとなるわけです。
たとえば日清戦争のあとの下関条約で日本が台湾の割譲を受けたといったように、です。

ところが携帯電話の処分をBさんに委ねたものの、Bさんがその後、何もしなかったら、その携帯は誰のものでしょうか。
当然に携帯電話は、もとの所有者であるAさんのままです。

北方領土についてみると、日本は連合国に北方領土の処分権を委ねましたが、いまだ連合国は北方領土の処分先を決めていません。
決めたという条約もありません。

一方ロシアは、北方領土を実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にロシアははいっていません。
ということは北方領土は、単にロシアが軍事占領しているだけであって、条約に基づく本来の所有者(=主権者)は、日本のままということになります。

なにも欲張って言っているのではありません。
国際条約や法を大事にするという考え方でいけば、そういう結論にしかならないということなのです。

日本は、千島、樺太の処分権を、サンフランシスコ講和条約の相手国である連合国に提供しました。
けれど日本が処分権を放棄した後、千島、樺太が、どこの国のものになるのかは、サンフランシスコ講和条約には明記されていません。
加えて、いま千島・樺太を占拠しているロシアは、サンフランシスコ講和条約に参加していません。
つまり講和条約に基いて領土を受け取る当事者としての資格がありません。

ソ連は、千島、樺太を「軍事占領」していますが、日本とソ連(あるいは現ロシア)との間で、千島樺太に関する領土割譲の条約の締結はありません。
連合国側が、ソ連に対して千島樺太を売却もしくは譲渡したという記録もありません。
ヤルタ協定で密約があったと一時ソ連は主張していましたが、最終的にその主張をひっこめています。)

つまり千島も樺太もいまだに日本の領土であり、当該領域の主権者は、実は「日本が保有したまま」ということになります。

もうひとつ申し上げると、ロシアが千島・樺太を軍事占領しても、領有権はそれだけでは移転しません。
このことは、「イラクを米軍が軍事占領しても、イラクの領土が米国領になるわけではない」ことを見れば、簡単にご理解いただけようかと思います。

イラクフセイン政権は、米国と戦争しました。
イラクは破れ、フセイン政権も倒れ、米国はイラクを軍事占領しました。
しかし「米軍がイラクを占領した」という事実は、イラクが米国の領地になった、つまりイラクの主権者が米国になったということを意味しません。
世界中の誰も、そんなふうに思ってもいません。
「軍事占領」するということと、「領土の主権を得る」こととは、まったく異なることだからです。

ついでに申し上げると、同じことは大東亜戦争の終期においてもいえます。
日本は連合国(代表は米国)が軍事占領しました。
けれど米軍は、日本を領有したわけではありません。
あくまでも連合国軍の総司令部(GHQ)として、一時的な軍事占領をしただけです。

つまり日本の主権は日本にあります。
ですから日本の軍事占領にあたって、GHQは、日本の主権は日本人にある、と宣言しています。
これが日本国憲法における「主権在民」の意味です。
つまり日本国憲法における「主権在民」は、連合国が日本を軍事占領するに際して、それが日本の領有を意図したものでなく、あくまでも一時的な軍事占領にすぎないことを宣言した文言、ということになります。

軍事占領は、主権の剥奪を意味しませんから(イラクの例に明らかです)、日本の主権は日本にあります。
そして日本に新たな独立政権が誕生する、もしくは元の大日本帝国に戻るとき、日本の主権は当該政権が担うことになる、そういう意味です。
従って「主権在民」は、「軍事占領」とセットの概念です。

主権在民(もしくは国民主権)を、軍事占領と切り離して考えると、非常におかしなことになります。
主権というのは、領土に関する排他的な絶対権だからです。
当然に交戦権をも含みます。
ということは、日本人のひとりひとりが日本の最高主権者ということになります。
日本人のひとりひとりが日本国の領土領海全部のオーナーです。
ということは、いまこれを読んでいるあなたのお隣のお宅は、あなたのものということです。
お隣さんがそれを認めないなら、あなたには交戦権があります(笑)。

要するに主権在民というのは、イラクを連合国が軍事占領して一時的に統治するけれど、あくまでイラクの主権者はイラクの民衆にありますよ、ということと同じ意味でしかないということです。
同様に日本国憲法というのは、日本が占領統治された期間における、「連合国占領統治領日本」のための一時的な軍事占領下における統治憲法であり、主権はあなたがた日本人にあるのですから、いずれ占領が解けた時点では、あなたがたの主権者となる政府もしくは君主とともに、その後の主権者や憲法を確定しなさいという意味のものでしかない、ということになります。


イラクの主権は、イラク国民が持っています。主権在民です。
占領統治下にあっても、日本の主権は日本国民がもっています。主権在民です。
なぜなら軍事占領と領土主権は意味が違うからです。

日本は戦後、GHQによる占領統治を受けましたが、日本は占領統治を受けただけで、日本が連合国の領土になったわけではありません。
そのことは昭和27年のサンフランシスコ講和条約の第一条に明確に書かれています。

そのサンフランシスコ講和条約には、「日本と連合国との戦争状態の終了」がうたわれています。
つまり、サンフランシスコ講和条約の発効の日まで、日本と連合国は「戦争状態」にあったのです。
そして「戦争状態が継続」していたから、講和条約で、日本と連合国は「戦争を終わらせた」と、これはそういう意味の言葉です。

すこし余計なことを書くと、では戦争をしていた当事者は誰なのか、という問題があります。
一方の当事者は米国に代表される連合国(United Nations)です。
そして戦争は、交戦相手があって、はじめて行われるものです。

連合国の相手国である戦争当事者は、間違いなく日本です。
そして戦争をしていたのは、江戸幕府の徳川政権でもなければ、豊臣秀吉政権でもありません。
さらにいえば、軍事占領下にあって占領憲法である日本国憲法を持つ「連合国軍統治領日本」の政権でもありません。
戦争をしていたのは、大日本帝国政権です。

ということは、戦争をしたのも講和をしたのも、その戦争当事者は大日本帝国です。
ですからサンフランシスコ講和条約に「全権」として調印文書に署名した吉田茂全権は、占領統治下の日本国憲法が規定する内閣総理大臣としてではなく、大日本帝国の君主である天皇の名代として署名しています。
だから「全権」です。

そして日本がこの条約によって、あらためて独立国として主権を回復したということは、その時点で占領統治憲法は効力を失い、日本は大日本帝国憲法下の日本に戻ったということができます。
なぜなら戦争は、占領統治日本としてではなく、大日本帝国として戦争していたからです。

講和条約を、占領統治下日本が締結したというのは、理屈が成り立ちません。
占領統治下日本は、連合国の下部組織であり、そうなると双方代理にしかならないからです。
日本国憲法が「占領統治憲法」としては有効でも、サンフランシスコ講和条約施行後は無効であるとする議論の根拠もここにあります。


ちなみに、朝鮮半島の場合は、サンフランシスコ講和条約の第二条Aで、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とあります。
日本は、朝鮮の独立を承認し朝鮮半島を領有する権原を放棄したのです。
すなわち朝鮮半島は、独立した朝鮮のものです。

連合国が朝鮮半島の独立政権として認めたのは、大韓民国、つまり韓国です。
従って国際法的には、北朝鮮は国家でなく「金一族という軍閥が実効支配するエリア」であるということになります。

一方、台湾については、千島樺太と同じで、サンフランシスコ条約で、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とあります。
つまり、台湾は日本の九州、四国、沖縄同様、日本一部でしたが、その処分権を連合国に委ねたわけです。

けれど台湾も、北方領土と同様、処分先が明記されていません。
そしていまだに連合国も日本も、台湾の日本領土からの割譲条約を、どこの国とも締結していません。

台湾は、終戦直後に、蒋介石率いる支那国民党が軍事占領しましたが、いまなお軍事占領のままです。
台湾の割譲条約は、日本と、いま台湾にいる蒋介石政権との間に結ばれていませんし、連合国が蒋介石政権を台湾政府として領土を割譲するという条約を締結した事実もありません。

台湾の場合は、戦後、蒋介石率いる国民党が、いわば進駐軍として台湾に入り込みました。
そしていまなお、国民党は台湾に居座っています。
これが何を意味するかというと、亡命政権である、ということです。

亡命政権としては、いまインドに亡命しているチベットダライ・ラマ14世の政権があります。
ダライ・ラマ14世は、中共政府の人民解放軍チベットを軍事制圧後、インド北部のダラムサラに亡命して、チベット亡命政府を作っています。
しかし、だからとって、インドのダラムサラが、ダライ・ラマ14世を主権者とするチベットの領土になったわけではありません。

同様に台湾には、いまもともと蒋介石が作った中華民国政権が居ますが、それは亡命政権であって、台湾が中華民国になったわけではありません。
では、台湾の国際法上の領土主権者は、今現在どこにあるかといえば、答えは日本です。

だいぶ話が脱線しました。
北方領土に話を戻します。

そもそも日本が千島列島を領土としたのは、たいへん古い話です。
江戸時代の元禄13(1700)年(赤穂浪士討入りの1年前)、この年松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ました。

その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、安政元(1855)年、日本とロシアとの間で「日露和親条約」が締結されました。
この条約によって、南千島を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。
要するに日本が南千島四島を領有する権原が確定したのです。

ところが日露和親条約で「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、安政3(1856)年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。
この問題は、日本国内の政権が明治新政府に移ってからも尾をひきました。

そこで明治7(1874)年に榎本武揚特命全権大使としてロシアに赴き、
(1) 日本は樺太を放棄する。
(2) 代わりに千島列島の全部を日本領とする。
という2点を要点とする「樺太千島交換条約」をロシアとの間で締結しています。
明治8(1875)年5月7日のことです。
この条約は、両国が署名した地名をとって、サンクトペテルブルグ条約とも呼んでいます。

その後日本とロシアとの間には、明治37(1904)年に日露戦争が勃発しました。
この戦後処理を行う条約が、明治38(1905)年9月5日に締結されました。
これが、サンフランシスコ講和条約に記載されたポーツマス条約です。
この条約によって、日本は樺太について、北緯50度以南を日本の領土としてロシアから割譲を受けています。(千島列島の全島は明治7年の時点ですでに日本領です)。

前出のサンフランシスコ講和条約をもう一度掲載すると、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
となっています。
日本は、千島列島と、樺太の南半分の「処分権」を、ここで放棄したわけです。

とことが、このサンフランシスコ講和の時点で、すでに千島と樺太は、ソ連が軍事的に実効支配していました。
これは軍事占領しているだけで、いまだ日本との間で領土の割譲条約が締結されていません。
また、サンフランシスコ講和条約ソ連は名を連ねていません。
では「公式な千島、樺太の領有権者は誰なのですか?」といえば、答えは「日本だ」という答えにしかならないのです。

ですから平成17(2005)年には、欧州(EU)連盟の議会でさえも、日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択しています。
そうでなければ理屈がなりたたないからです。
サンフランシスコ講和条約締結後、60年も経ち、いまやソ連さえもなくなったにも関わらず、ロシアが樺太、千島を占領し続ける法的根拠はどこにもないからです。

加えて日本国政府は、この問題を軟着陸されるために、もともとの日本領である南千島のみだけでも、日本に返還するようにと、ソ連、そして現代ロシアに対して求め続けています。
そして麻生内閣の時代、麻生総理はロシアのプーチンとの対談し、この北方領土返還については、「我々の目の黒いうちに最終決着をしましょう」とまで、話を煮詰めてきていたのです。

ところが日本の国政が、民主党政権になるやいなや、鳩山民主党政権は、国民からまったくみえないところで、日本の税金台帳から、北方領土の記述を消してしまったわけです。
これこそ実にとんでもない、売国行為です。

とくに千島列島沖合は、北方漁業の大産地であり、我が国の食に書かせない領域です。

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魚貝類は日本人にとっての貴重なタンパク源です。
最近では、韓国産の魚貝類が大量に日本にはいってきていますが、韓国産の海産物は大便によって汚染され、大腸菌等が基準値を大幅に上回ることから、いまや世界中、中国でさえも、いまや輸入規制品です。

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要するに、本来なら海産物は日本産がいちばん安全なのです。
しかも千島列島産の海産物は、非常においしくて、量も豊富です。
だから終戦まで、千島列島最北端の占守島に、ニチロの海産物缶詰工場があったのです。
そこで作られた魚介類の缶詰が、遠く南方戦線にまで送られていたのです。

そういう我が国にとって大切な領土問題について、私達はもっと大切に考えて行かなければならないのではないか思います。


北方領土に関する共産党の主張
たいへん不思議なことですが、北方領土についてまともな主張をしているのは、共産党だけなのです。
不思議不思議です。



2016年01月30日

ねずさんの ひとりごとより













伝説の英霊 船坂弘

伝説の英霊 舩坂弘



舩坂弘(ふなさかひろし)さんは、戦後、渋谷で小さな書店を開き、そこから出発して渋谷に全フロアが書店という「書店ビル」を日本で初めて開かれた方です。
すでにお亡くなりになっていますが、渋谷がいまも若者たちが安心して集える街でいられるのも、実はその舩坂さんの貢献があったからといわれています。



NURO Mobile


その舩坂さんは戦時中、パラオアンガウル島に軍曹として赴任しました。
この島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島で、そこで舩坂さんは、わずか千二百名の仲間たちとともに、約二万二千名の米陸軍第八十一歩兵師団を迎え討ちました。

米軍の第八十一歩兵師団というのは、「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた米軍選りすぐりの強固な軍団です。
兵だけではありません。米軍はこの小さな島と、隣のペリュリュー島を攻略するために、マーク・A・ミッチャー中将率いる米軍第三十八機動部隊、通称「快速空母群」を派遣しています。
航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦十数隻、駆逐艦三十五隻という大部隊です。
 




そのような大軍を前に、アンガウルの日本軍は、島を一ヶ月以上も持ちこたえて、最後、玉砕しました。
大怪我のために偶然に生残った舩坂さんは、敵に一矢報いようと米軍の本部にたったひとりで突貫攻撃をしかけ、そこで銃弾を受けて意識を失ったところを、助けられています。

このときの模様を、舩坂さんは「英霊の絶叫」(光文社)という本に著わしています。


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この本には三島由紀夫が序次を寄せていて、実際の戦闘体験者の書いた本として、史料的価値もたいへんに高い本です。


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舩坂弘さん(後列左)と三島由紀夫(前列左)
舩坂弘さんと三島由紀夫さん


舩坂さんは昭和19(1944)年4月27日に、この島に着任しました。
上陸早々から、敵グラマン機動隊の空襲を受けたそうです。
友軍の機影は一度も見られない。
この時期、すでに日本は制空権を失っていたのです。

上陸早々から、島の守備隊は「水際撃滅作戦」のために、島の海岸線に広範囲に障害物を設置し、沿岸に鉄条網を張り、さらに鉄条網の内側に石垣を組み、そのまた内側に深い戦車壕をめぐらし、そのまた内側に各小隊や分隊の陣地を二重、三重にめぐらせるという作業にかかりました。

炎暑のもと、昼夜の別なく重い石を運び、砂と汗にまみれて炎熱下の作業を行いました。
このときの様子は、強制重労働に従事する土方や人夫に等しかったといいます。
あまりに苛酷な作業に、病人さえも続出で、体力自慢の舩坂さんですら、毎日が拷問を受けているように感じたというくらいです。

水は雨水だけです。
雨水を釜に貯めるのですが、見ればボウフラが湧いています。
そのまま手を入れれば、ボウフラに咬まれます。
だから、淵をトントンと叩くのだそうです。
すると、ボウフラが、一瞬、水に沈みます。
そこですかさず、上澄みの水を汲むのだそうです。

食料は備蓄していたけれど、万一のためにと節食していました。
食事は、飯盒(はんごう)で炊いたご飯が1合、みそ汁、おかず一品。
一日二食だけです。
「早く敵が上陸しねえもんかねえ。もう俺は一刻でも早く敵の弾に当たって死にたいよ」
そんな愚痴が、とってもぜいたくにさえ思える日々だったそうです。


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毎日の壕掘り仕事のために、みんな掌が血に染まり、指も筋肉疲労で固まって動かなくなり、熱病にうなされたそうです。
それでも壕を掘り続けました。
暑さと過労が度を越すと、絞りきった雑巾と同じで、体からは汗が一滴も出なくなるのだそうです。

そんな過酷な仕事の中、気持ちの支えになっていたのは、「日本には肉親がいる。家族の暮らしている本土に米軍を絶対に近付けちゃならない。この島を敵に渡してはならない」という一点だったそうです。
こうして、「このくれえ頑丈にしときゃ、敵さんも一人も上陸で決めえ」と、誰もが思えるほど頑丈な島の水際守備設備ができあがりました。


昭和19年9月6日、敵船団が洋上に並びました。
一斉に島に向かって艦砲射撃が行われました。
空からはB-24や艦載機が、さかんに爆弾を投下し、銃撃を浴びせてきました。
7日には、洋上に敵潜水艦まで出没し、いよいよ事態の切迫を告げました。
8日には艦載機による空爆がいよいよ激しくなりました。
12日以降は、艦砲射撃の量は一日に千数百発という数に達しました。

おかげで、せっかく苦心して造った水際陣地は、ひとたまりもなく破壊されてしまいました。
「食うや食わずで造った陣地も二日で水の泡かい」
舩坂さんたちの落胆はひとかたでなかったといいます。


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でも、これで終わりではないのです。
14日になると、米軍は舟艇約十隻に分乗して東海岸を偵察にやってきました。
そして島の形が変わるまで爆撃と艦砲射撃が繰り返され、快速空母が去ると今度はウイリアム・H・ブランディ少将率いる「アンガウル攻撃群」の戦艦三隻、巡洋艦四隻、駆逐艦四隻が、それまでに輪をかけた艦砲射撃をはじめました。

9月17日午前5時30分、黎明をついて熾烈な艦砲射撃とともに米軍の上陸がはじまりました。
この時点で日本側は、連日の艦砲射撃と空爆のために、敵の状況を正確に把握するための監視哨も破壊されてしまっていました。
情報を迅速に伝えるための通信網も、島のいたるところでずたずたに切断されていました。

米軍の上陸を発見したのは、巴岬(ともえみさき)にいた沼尾守備隊でした。
すぐに大隊本部に「伝書鳩」で「敵上陸地点は西港なり」と急を報じました。
靖国神社に行きますと、軍犬、軍馬と並んで、軍鳩の慰霊塔が立っています。
鳩も国を守るために大活躍したのです。
最近総理を勤めた鳩とは比べ物にならないくらいです。



米軍は、アンガウル島に、砲兵6個大隊、中戦車1個大隊を含む2万2千名の兵を一気に上陸させました。
敵の空爆に焼かれ、音を立てて迫る戦車群に追われ、空腹と睡魔に冒された守備隊の前に、いよいよ敵部隊が現れたのです。

「前方三百メートル、敵部隊発見!」
そのとき舩坂弘さんが見た敵兵の第一線は、ほとんどが黒人だったそうです。
その黒人たちの後ろに、白人が点々と混じっていたそうです。

敵の顔というのは、意外と近くに見えるものなのだそうです。
榴弾筒(りゅうだんつつ)発射用意!撃てー!」
かたまってゆっくりゆっくり迫りくる米軍の中央付近に狙いを定めて、撃って撃って撃ちまくりました。

至近距離からの砲撃です。
当たる、当たる。
このとき舩坂さんは、擲弾筒や臼砲で米兵を200人以上やっつけています。
面白いように米兵は炸裂音とともにふっとび、不意の攻撃に驚いた敵は、たちまち後ろを見せて煙のように背後のジャングルの中に這いこんでしまいます。

あまりにもあっけなく敵が引き下がったので、どうしたのかと思っていると、急に沖合から轟音が舞いこんできました。
無線連絡を受けた敵艦隊が、一斉にナパーム弾、砲弾を撃ち込んできたのです。

砲弾はところかまわず炸裂しました。
舩坂弘さんが伏せている前後左右に、岩石を砕き、黒い煙と白い土埃を吹き上げて破片が飛び交いました。
撃ち返したくても、目を開くことさえできません。
敵の巨弾はスコールのように重なって降り注ぎました。
砲弾を避けるために姿勢を変えたり、立ち上がろうとした者は、すべて血に染まって倒れたそうです。
だから舩坂さんは、部下に「動くな、動いてはいかん!」と叫びました。
けれど自分の声が自分の耳にすら届かない。

砲弾が止んで周囲を見渡した舩坂弘さんは、アッと叫んだまま、驚愕のあまり気を失いそうになったそうです。
そこは地上の様相ではなかったのです。
数メートル間隔で深くうがたれた弾着の跡がぽっかりと大きな穴をつくり、稜線はすっかり変形して見る影もありません。
無数の凸凹の上には、引き裂かれた樹木と、分隊員の腕や半身が血にまみれて転がっていました。
もはや屍体とさえいえない。人体の四分の一、あるいは二分の一の肉片に近い遺骸が黒々と横たわっていました。
先ほどまで、元気な冗談を飛ばしていた戦友たちが、青白い泥まみれの顔に、白い歯をむき出して宙をにらんで死んでいました。
もぞもぞと動いている生存者は数えるほどしかいませんでした。



一生懸命部下たちの姿を探しました。
けれど認識票さえどこかに吹っ飛んでいます。
三メートルごとに三人折り重なって斃れている者、頭部を半分削がれた者、片腕を奪われた者、内臓が半分はみ出している者など、おもわず目をそむけたくなるような光景が展開されていました。
流れる血は河をつくり、血を存分に吸ったくぼみはどす黒く変形している。
その上を走る硝煙をはらんだ炎風が、むかつくような血のにおいをふりまいている。

そこへ先ほどの黒人主力部隊がやってきました。
兵力を増強したらしく、今度は何百人という数です。
びゅうん、びゅうんと、銃弾が耳をかすめました。

その3日後、舩坂さんはひん死の重傷を負いました。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
味方に助けてもらおうにも、そこは敵陣のど真ん中でした。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ました。

傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、舩坂さんに自決用の手榴弾を手渡して去ってしまいました。
「おまえはもう死んでいる」と宣告されたようなものです。
「負けるもんかっ!」と舩坂さんは、近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。

着いた時には、死体が這ってきたような姿でした。
ところが舩坂さんは、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまいました。





舩坂さんはその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負いました。
けれど不思議と翌日には回復したそうです。
本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうです。
けれどほとんど人造人間もどきの体力です。

舩坂さんは、栃木県西方町の農家の三男坊です。
子供のころからきかん気のガキ大将でした。
長じては剣道と銃剣道の有段者となり、また中隊一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人だったのです。

舩坂さんは、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。
またあるときは、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ突き殺しています。
まさに鬼神の如き奮戦です。
そんな舩坂さんを間近に見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。

しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相でした。
舩坂さんも、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。

さらに腹部の傷が化膿していました。
そこにハエがたかって蛆(ウジ)が湧きました。
舩坂さんは、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意したそうです。
このときの舩坂さんは死の瀬戸際です。
立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなかったそうです。

そんな状態で、彼は遺書を書きました。
 ***
若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
  陸軍軍曹 舩坂弘

【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
 ***

自決を決意した舩坂さんは、手にした手榴弾を引き抜きました。
自爆しようとしたのです。
ところが手榴弾が爆発しません。
思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂さんはこのとき、死ねないことへの絶望感を味わったといいます。

そんな最中にも、洞窟には絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲には、傷の痛みに呻く声が満ちています。
壕内は、垢にまみれた体臭に、傷口の膿みの臭い、洞窟内の糞尿の臭気が満ちています。

まさに地獄のような壕のなかで、数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂さんは、絶望から気を取りなおし、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いようと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意しました。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出しました。
そして火薬を、ウジのわいた腹部の患部に詰め込みました。
傷口は貫通創です。
腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いています。

舩坂さんは、傷口に火薬を詰め終わると、そこに火をつけました。
傷口の両側から炎が噴き出しました。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂さんは、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。


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当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。
そのまっただ中を舩坂さんは、食事もとらず、数夜かけて這って米軍前哨陣地を突破しました。
指揮所周辺さえも突破しました。
そして4日かけて、米軍指揮所のテントにあと20Mの地点にまで到達しました。

舩坂さんは、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まったのです。

舩坂さんは、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出して立ち上がりました。
それは異様な光景でした。
絶対安全なはずの米軍の本部指揮所に、突然、まるでホームレスが武装したような、しかもガリガリにやせ細っり、真っ黒に汚れた幽鬼のような日本兵が、いきなり茂みから立ち上がったのです。
あまりの異様な風体に、発見した見張りの米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。

実際、このときの舩坂さんは、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負っています。
更に連日の戦闘による火傷があり、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいます。
全身血まみれ、服はボロボロ。
人間に見えたら不思議なくらいだし、そもそも生きていること自体、ありえないような状態です。

米軍の動揺を尻目に、舩坂さんは司令部目掛けて渾身の力で20Mを駆けました。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとしました。
その瞬間、銃で首を撃たれました。

倒れた舩坂さんのまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断しました。
全身血まみれで首を撃たれ、大量な出血があります。生きていると思うほうがどうかしています。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、とりあえずその日本兵の遺体を野戦病院の死体安置所に運びましだ。

後でわかったことですが、このとき軍医は手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、集まった米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っていたのだそうです。

ところが、死体置き場に3日間転がされていた舩坂さんは、なぜかそこで息を吹き返しました。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍ったそうです。
そして舩坂さんに銃口を向けました。

ところがその幽鬼は、向けた銃口にゆっくりと向かってきます。
そして銃口に自分の身体を押し付けると、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげて、ふたたび気を失いました。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。
米軍は、舩坂さんの無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈りました。

アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を贈っています。


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さて、一命を取りとめた舩坂さんは、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られました。
けれど闘志の衰えない舩坂さんは、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見ると、
「よし!あの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓いました。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。
ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。

舩坂さんは、約千メートルをほふく前進し、途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、小銃弾を6〜7発集めて火薬を抜きました。
そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけました。

火薬庫は大爆発を起こしました。
さらに別の棟へも爆発が移りました。
おかげで島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいました。
舩坂さんは、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻りました。
米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせました。

収容3日目の夜、舩坂さんはこんどは歩哨を殺して銃を奪いました。
そして夜陰にまぎれてさらに別な歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートルに迫ったとき、突然背後から「ヘーイッ!」と声がかかって、いきなりタックルをくらいました。

必死に抵抗したのですが、こちらは瀕死の重症患者、相手は元気な米兵の大男です。
舩坂さんはぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられてしまいました。
米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂さんに銃を向けました。
「銃殺される。これで楽になれる」
そう思って舩坂さんは、目を閉じたそうです。

ところが舩坂さんの耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。
 自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。
 アナタハ神ノ子デス。
 アナタ生キルコト、死ヌコト、
 神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂さんを縛り付けたままテントを出て行きました。

翌日、縄を解かれて放置された舩坂さんは、懲りずにまた飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れました。
マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそチャンス!

舩坂さんはその夜ひそかにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えました。
「よし、あとすこしだ。」
そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂さんは拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。

「殺せ」という舩坂さんに、大男はこう言いました。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、
 私ニ連絡キマシタ。
 アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、
 私ハ仕事ノ途中ダケレド、
 切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けました。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、
 即座ニ射殺サレタコトデショウ。
 私ハソレガ心配デ
 大急ギデ帰ッテキタノデス。
 無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂さんの無謀な行動を戒め、
「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説きました。そして「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問いました。舩坂さんは、
「わからない」と意地を張りました。
けれど舩坂さんの心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみました。

舩坂さんら捕虜は、ハワイへ送られることになりました。
一団を乗せた上陸用舟艇ペリリュー島を離れようとしたとき、その大男がやってきました。
「軍曹、死ンデハイケナイ。
 生キテ日本ニ帰リナサイ。
 私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡してくれました。
そこには彼の名前が記されていました。
舩坂さんはその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまっています。

舩坂さんは、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国しました。

帰国した舩坂元軍曹は、栃木の実家に帰りました。
実家では、すでに戦死したものと思われています。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日です。
昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれてあったそうです。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」

だから実家に帰って一番初めに行ったことは、「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。
けれど村の人々は、帰ってきた舩坂元軍曹が、あまりに傷だらけでボロボロであったために、これはきっと幽霊か魔物が化けたものに違いないと噂しました。
モノノケかバケモノと思われたのです。

こうなると、せっかく帰ったのに、村にもいずらい。
舩坂さんは、親戚を頼って焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前にあった養父の地所で、わずか一坪ばかりの土地を借り、書店を開きました。
後年、この書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展しています。



舩坂さんは、書店経営の傍ら、
「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「血風 二百三高地
ペリリュー島 玉砕戦」
「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」
硫黄島‐ああ!栗林兵団」
「殉国の炎」
「聖書と刀‐太平洋の友情」
「関ノ孫六三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わしました。




剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っています。
この関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。

また、ペリュリューで世話になった大男にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。
そしてようやく、Crenshaw伍長を見つけ出し、二人は生涯の友となっています。





舩坂さんは、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行われていました。

さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行いました。
舩坂さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文は、次のように記されています。
*****
尊い平和の礎のため、
勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、
永久に其の功績を伝承し、
感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。
******

まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
日本には、こういう男がいたのです。

なぜ、舩坂さんは、ここまでして戦い、また戦後も亡くなられた戦友たちのために尽くされ、そしてまた渋谷で大きな書店を経営し、そしてさらに渋谷の街の健全化にも精力的に取り組むことができたのでしょうか。

アンガウルでの戦いのとき、すでに重傷を負い、指揮系統まで完全に崩れていた中で、舩坂さんは、自分の傷口を火薬で焼いてまで戦いに出ました。
何のためでしょうか。

諸外国の兵隊さんは、たとえば南京城の攻防戦の際に、いち早く便衣に着替えて南京から逃げ出した唐生智のたとえをもちだすまでもなく、あるいは尼港事件や通州事件のときの支那人たちを持ち出すまでもなく、自分たちが圧倒的に強い状態にあるときには、相手に対してありとあらゆる暴行を加え、残虐をしつくしますけれど、いったんヤバイとなったら、一目散に逃げ出します。

ところが、ここでご紹介した舩坂さんは、アンガウルにおいて、一介の軍曹でしかありません。軍隊の序列からしたら、決して高くはない階級です。
にも関わらず、すでに部下まで失っていながら、舩坂さんは戦い続けました。
捕虜になってまで、重体の体をひきずって、米軍の火薬庫を大爆発までさせています。
なぜでしょうか。

そしてこのことは、実は、何も舩坂さんに限ったことではなくて、当時の日本の兵隊さんたちひとりひとりに、というより、全員にみられたことです。

このことを考えるに、ひとつの参照としてナポレオンの軍隊があります。
ナポレオンの軍隊は、ヨーロッパにおいて、めちゃくちゃ強い軍隊でした。
またたく間にヨーロッパ全土を席巻しています。
なぜナポレオンが強かったかというと、彼の軍隊はひとりひとりの兵士が、フランスを愛するという気持ちで戦ったからです。

それまでのヨーロッパの王様たちの戦いは、王の私有財産のための戦いです。
そして戦いに赴く兵たちは、これまた王の私有財産である傭兵です。
これは、とことん戦って兵が死んだり怪我をしたら、その分、王の財産が減ってしまうということを意味します。
ですから、戦いは、適当なところで打ち切り、負けたら私有財産である領地の一部を相手国にくれてやって、撤収してました。とことん戦って全滅したら、財産が減るからです。
これは兵からみても、ただカネで雇われているだけのいわばサラリーマンですから、何も戦だからといって命まで投げ出す必要はない。適当に戦って、やばそうなら、さっさと逃げる。これが生き残りの知恵です。

ところがナポレオンの軍隊は違いました。
フランスを愛するという思いを共通させ、誰もがフランスのために戦いました。
ですから、どこまでも戦う。ひとりひとりの兵士が、たとえ大けがをしてでも戦う。命の限り戦う。
だから強かったのです。

兵が強いから、ナポレオンはヨーロッパを席巻しました。
このことに、ヨーロッパの王たちは驚愕しました。
そして生まれたのが、立憲君主制です。
つまり、王も国法にもとづく法的存在であり、国民や兵士と等しく国を愛する者としたわけです。
そうした変化が西欧で起きたのが、19世紀の出来事です。

ところが日本では、7世紀には、天皇は人として国や民衆を私物化して支配する(これをウシハクといいます)君主ではなく、国や民衆の生活を守るための政治をする人を任命し、自身は政治権力を揮わないという存在となりました。
これがシラスと統治であり、日本の形です。
つまり、天皇は私的に国や人を支配する君主ではなく、国や人を統(す)めるための法的存在となり、政治権力を揮わない政治権力よりも、より上位の存在としたわけです。

そして民衆は、その天皇の民と規定されました。
こうすることで、政治権力者にとって、民衆も国も、天皇からの預かりものという形が生まれました。
そしてそうなることによって、政治権力者も、一般の民衆も同じ「人」という対等感が、日本に根付きました。

ですから今でも、総理大臣も警察署長も、権力を誇示し民衆を支配する存在などと、日本人は誰も思っていません。
仕事による役割の違いはあっても、人としては対等。それが日本人の意識です。
そしてこれこそ、究極の民主主義といえるものです。

私たちの若き日の父祖たちは、そのことを誰もが知っていました。
そしてそのことのもつ意味と、幸せを知っていました。
だからこそ、そういう日本を守るために、そして弾圧や支配によって苦しむ東亜の人々を救うためにと立ち上がり、戦いました。
ですから、戦いは、国の戦いではなく、ひとりひとりの兵士たちにとって、自分の戦いであり、みんなのための戦いでした。
日本人は、家族だったのです。
だからこそ、どんなに苦しくても命の限り戦い抜いてくれたし、それが信じられないほどの日本兵の強靭さとなっていたのです。

当時、フランクリン・ルーズベルトは次のように演説しました。
「日本人の頭蓋骨には欠陥があり、死ぬことに苦痛を覚えない特殊な人種である」
これまたとんでもない発言ですが、これは、当時のアメリカの学者が唱えた説でもあります。
いまでは、痛覚を感じる神経は白人の方が少ないことが医学的に実証されているそうですので、このルーズベルトの演説は実にとんでもない説とわかるのですが、アメリカの大統領をして、そうとしか思えなくさせるほど、日本人の勇敢さは、人類史上まれと言って良いほどのものであったのです。

そしてその勇敢さがどこからきているのかといえば、繰り返しになりますが、日本人がみんな家族であり、その家族を守おうとする限りない愛によってもたらされていたということを、私たちは、しっかりと思い返す必要があると思います。
そのおかげで、戦後の私たちの平和と繁栄と、そして命があります。
そのことのありがたさに、あらためて思いをはせたいと思うのです。


ねずさんのひとりごとより






真岡郵便電信局乙女9人集団自決


真岡郵便電信局
乙女9人集団自決



皆さん これが最後です さようなら


真岡郵便電信局事件。

ソ連軍が侵攻した樺太・真岡で女性電話交換手9名が自決。



真岡郵便電信局事件というのは、昭和20年8月20日、すでに終戦詔勅も発せられ、日本が戦闘を終結させていたはずのこの日に、日本領であった南樺太ソ連軍が侵攻してきたことによって、最後まで本土との通信回線保持のために職務をまっとうした女史電信職員9名が集団自決した事件です。

まず事件の背景を簡単に振り返ってみたいと思います。



ソ連は8月9日に、いきなり日ソ不可侵条約を破って満州樺太アリューシャン列島にまで攻め込みました。ソ連はそのままの勢いで、北海道や朝鮮半島全域まで、自国の領土に収めようとしたのです。





日本は、ソ連の侵攻を知ると、8月13日には、樺太でも緊急疎開を開始しました。
15日正午には、玉音放送が流れ、大東亜戦争終結していますが、それでもソ連が侵攻してきている以上、とにもかくにも樺太に残留する邦人を、特に女子供を優先して本土に疎開させなければなりません。

ところがこの疎開用の輸送船を狙って、ソ連の潜水艦が攻撃をしかけています。
この攻撃によって、疎開しようとしていた1700名の日本人乗員が殺害されています。8月22日のことです。
輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。

集団疎開は23日まで続くけれど、その危険な航海に、日本の船の乗員たちは勇気をもって挑み、短期間に約8万7000人を北海道へと輸送し、脱出させています。実に勇敢な行為です。
そしてこの輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができないのが本土との通信連絡網の確保です。

当時、樺太と日本本土の間には、電話線が引かれていました。
そしてその電話は、郵便局にいる電話交換手の女性たちが、手作業で回路の接続業務(電話交換業務)をしていました。

8月16日の朝のことです。
樺太の真岡市にあった真岡郵便局で、朝礼が行われました。



その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しました。

政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ています。
でも、その疎開を効果的に実現するためには、電話交換業務を継続しなければなりません。
そこで、残って交換業務を続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員、一度家族と相談したうえで、返事を聞かせてください。



かずえさんのこの言葉に、その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、「私は残ります」、「私も残ります」、「私も残らせて下さい」とこたえたそうです。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。

かずえさんは、みんなのその気持ちが嬉しく、しかしみんなを危険にさらさせるわけにいかず、目に涙を浮かべながら言いました。
「みなさん、今日は、希望者は募りません。家に帰り、一度家族と相談してから、残るかどうかを班長に伝えてください。」

現実問題として、ソ連兵が来たら、何をされるかわからないのです。
「残る」ということは、最後は「自害する」しかない。
だから、自分ひとりで決めちゃいけない。あくまで家に帰って、親と相談してから、あらためて希望者は名乗り出てください、と鈴木かずえさんは締めくくりました。





斉藤春子さんは、妹の斉藤美枝子さんと、ふたりで、電話交換手として働いていました。
斉藤姉妹は、二人とも、残留を志願しました。
娘たちを想うお母さんは、真岡郵便局長に電話をかけました。
「娘二人とも預けたままでは、引き揚げられない。だから、どうしてもひとりだけでも連れて帰らせてください。」

18日、上田局長は、斉藤姉妹を呼び出して母親からの電話のことを伝え、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げました。
姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返したといいます。
そして言い合いの後、姉が母と帰ることになりました。
そんな姉妹の姿を黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんも、母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように、帰しています。
こうして最終的に、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。



8月19日の朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えました。
電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられました。

午後7時、最初の夜勤当直班として、高石班11名が勤務に付きました。
この時点で、真岡郵便局にいたのは、平井茂蔵電信主事他、男性職員6名、女性職員が14名です。
高石班11名は、電話交換業務を行う奥の建物にいました。

翌朝7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの布告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を行います。
そしてソ連軍の上陸用艇が、真岡に上陸する。



南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって、降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をせず、一般人の避難のための時間を相手に与えています。
戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとしたからです。
これが日本の姿勢です。

便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。そんな卑怯なルールを無視した支那兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情をかけ、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をしていたのです。
ところが真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行ないました。
多くの真岡市民は、防空壕に入る間もなくこの艦砲射撃で命を失っています。



どうにか艦砲射撃を逃れた真岡郵便局の高石班長は、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行い、職員全員に非常招集をかけました。
本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期できたからです。
地震や台風などのあと、電話回線がパンクするのを想像したら、事情はおわかりいただけようかと思います。

局員たちは、急いで郵便局に向かいました。
ところがその頃には、すでにソ連兵が市内に上陸しています。
彼らは動くものを見れば、片端から銃撃する。
武器を持たない丸腰の日本の民間人でも、容赦はありません。
見つけ次第殺し、屋内に侵入しては強姦や略奪を始めていたのです。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されています。

艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員が、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しています。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子は、後に次のように証言しています。
「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした。」
まさに、猛攻がおこなわれていたのです

上田郵便局長も郵便局へ向かいました。
けれど、手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難しました。
するとその建物には、局長の他5~6名が、先に避難していました。

建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、上田郵便局長が隠れている建物に向かって走り出しました。
ところがあと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。

自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長が目の前で倒れたのです。
上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引きずり込もうと、路上に飛び出しました。
すぐあとを同僚の局員が続きました。
その二人をみつけたソ連兵が、また発砲しました。

上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れてしまう。
血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が、棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をしました。
その場の全員がただちにソ連兵によって拉致される。

さらに真岡郵便局では、平屋建ての本館と、奥の2階建ての別館があったけれど、本館は艦砲射撃で破壊され、そこにいた全員が死亡してしまいます。
こうして、指揮系統を失った電話交換手の女子11名だけが取り残されたのです。

彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しました。
けれど、はじめのうちは遠くにあったソ連兵の銃撃の音が、どんどん間近に迫ります。
さらに表側にあった郵便局本館が吹き飛ばされる。
もはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
それが、
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」というものです。

11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿があった。

その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返しました。
ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出しています。
けれど残りの9名は、そのまま還らぬ人となってしまいました。





このことから、戦後、アホな学者などが、真岡郵便局の女性たちは、何も死を選ぶ必要がなかった。なぜなら2名の女性は、ソ連兵によって救助され、命を永らえているではないか、彼らは悪魔ではない、などといい加減な議論をしている者もいるのだそうです。

そういう学者たちは、通化事件その他、満蒙で起こった事件にほおかむりしています。
ソ連兵にとって強姦は戦利品のようなものです。
青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけのことです。
残酷だけれど、それが事実です。



ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺された。
そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ、死ぬまで強姦された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。

このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
≪参考:尼港事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-542.html

このような危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局の乙女たちが、おのれの人間としての尊厳を守るために、他にどういう選択肢があったのでしょう。

彼女たちのご冥福を祈り、昭和天皇香淳皇后は、御製を残されました。

昭和天皇 御製】
 樺太に命を捨てし たおやめの
  心思えば 胸せまりくる

香淳皇后陛下 御歌】
 樺太につゆと消えたる おとめらの 
 みたまやすかれと ただいのりぬる

この事件は、後に「氷雪の門」というタイトルで映画化されました。
その冒頭のナレーションです。

========
樺太(からふと)・・・
いまはソ連支配下にあり「サハリン」と呼ばれているこの島は、ともすればもう、人々の記憶から遠ざかろうとしている。

だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、多くの人々にとっては、いつまでも懐かしく心を去らない故郷(ふるさと)である。
また、ある人々にとっては、父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
その思いをとどめようとするために、ここ北海道稚内市稚内公園に、ひとつの門が建っている。

この白御影石を使用した十メートルあまりの二本の塔。
その下に、厳しい樺太の風土に耐えて生き抜いた人々をあらわす女人像。
これは「氷雪の門」と呼ばれている。

この碑文には、次の言葉が刻まれている。
・・・・・・
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。
戦後はその門も固く閉ざされた。
望郷の念止みがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
この塔を建つ
・・・・・・・

またその近くに、いっそうの屏風のように形作られた九人の乙女の碑。
「皆さんこれが最後です。さようなら」
この言葉の意味を知らない人は多い。
また、初めてこの碑の存在に気付く人も。

そして傍(からわ)らの碑文を読む人は、これが樺太西海岸真岡町、真岡郵便局電話交換手九人の、最後の言葉であることを知るだろう。
=========



九人の乙女の碑


この映画は、昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となりました。
ところが、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
「非常にソビエトにとって面白くない映画が日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」と発言したことで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になりました。
上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけです。
映画はお蔵入りになりました。

真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より「人類の理想の国家ソ連」への礼賛が、戦後反日左翼主義者たちには大事だったのです。

けれども彼らが礼賛したソ連がどういう国だったのか、ソ連崩壊を目の当たりにしてきたいま、世界中の人が、その事実を知っています。

真岡郵便局でお亡くなりになった九名の乙女たちです。
 高石ミキ   24歳 
 可香谷シゲ 23歳
 伊藤千枝  22歳
 志賀晴代  22歳
 吉田八重子 21歳
 高城淑子  19歳
 沢田きみ  18歳
 渡辺 照   17歳   
 松崎みどり 17歳  

============
【碑文】
8月20日、ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった9人の乙女らは、死をもって己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険。
今はこれまでと死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み、夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。
============

ひとつだけ、大切なことを加えておきます。
南樺太は、日本領であり、戦前まで日本人が入殖していました。
もともと、樺太は北海道より北側の、緑も何もない荒涼とした赤土の大地でした。

みなさま、機会がございましたら、是非、google MAPの航空写真で、その樺太を見てください。
日本領だった南半分だけが、いまでも緑の大地となっています。
日本人が、冷たい寒帯の島で、土を耕し、たくさんの木を植えたからです。

その緑が、いまでも南樺太の大地に育っています。

真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土ででお亡くなりになった皆様のご冥福を捧げ、このお話を皆様にお送りします。


草莽崛起 PRIDE OF JAPANさんより転載








東条英機の遺言


東条英機の遺言


若き日の東條英機閣下


上の写真は若き日の東條英機閣下です。
いかにも優秀な青年といった印象を受けます。
その東條英機閣下が東京巣鴨において刑死されたのが昭和23(1948)年12月23日のことです。
64歳でした。

東條英機閣下は、明治17年生まれ。陸軍大学を卒業し、陸軍大将となられ、改選前の昭和16(1941)年10月に、勅命をもって内閣総理大臣に就任されました。
いささか私的なことになりますが、いまの自分と同じ年代のときに、勇気を持って大きな決断をし、苦しい戦いを遂行され、その全責任を負って刑死されたということを考えると、本当にすごい人がいたのだなあと、その感慨を深くします。


U-NEXT


その東條英機閣下には、遺書(遺言状)があります。
死の直前の文であり、そこにはまさに血を吐くような至誠が読み取れます。
この遺書は、ネットなどでもたくさん出回っていますが、なんと、そのひとりの優秀な人間の死を前にした覚悟の遺書が、なんと信じられないことに、改ざんされて出回っているのです。



たとえば、実際の遺書には
『今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の
 国民罹災者の一大追悼慰安会を行われたし。
 世界平和の精神的礎石としたいのである。』
の文が、肝心の「世界平和の精神的礎石としたい」や「慰安会」が取り払われて、
<今回の処刑を機として敵、味方、中立国の
 罹災者の一大追悼会を発起せられたし>
とされています。
『国民罹災者』がただの<罹災者>に、『慰安会』が<追悼会>に、それぞれ書き換えられ、肝心の『世界平和の精神的礎石としたい』という目的を書いた一文が欠落しています。

この部分の東條英機閣下の遺書の一文は、大東亜戦争が「有色人種の植民地支配からの脱却と独立、アジアの平和と繁栄を意図したものであった」ということが背骨となっています。
だからこそ、東条閣下はこの戦争を「精神的礎石としたい」と書いているし、そのために戦い、散華された方々についての「慰安」をしたいと書いているわけです。





それが「追悼」になると意味が変わります。
無意味な侵略戦争に強制的に駆り立てられて亡くなった人々だから「追悼」であり、東條閣下自身にその自覚があったのだ、と解釈できる余地を生むのです。
このあたりの言葉のすり替えは、非常に悪質であり巧妙です。





あるいは、遺書に
『再建軍隊の教育は、
 精神教育を採らなければならぬ。
 忠君愛国を基礎としなければならぬが、
 責任観念のないことは淋しさを感じた。
 この点については、大いに米国に学ぶべきである。』
とあります。

この文は、あきらかに「将来再建する日本軍」のことを書いています。
ところが流布されている「東條英機の遺書」の多くは、主語が「再建軍隊」ではなく、単に「教育」と置き換えられ、「忠君愛国を基礎としなければならぬ」が取り払われて、「淋しさを感じた」が「ゆるがせにしてはならぬ」に変えられています。

するとどうなるかというと、
<教育は、精神教育を採らなければならぬ。
 責任感をゆるがせにしてはならぬ>
となります。
読み比べたらわかりますが、これではまるでただの精神主義者の妄言であるかのようです。

ここで東條英機閣下が述べられていることは、一般的な青少年への教育問題ではありません。
軍隊教育についてです。
大東亜戦争末期において、現場が本部命令に背いて、進撃すべきものを現場指揮官の判断で勝手に逗留したり反転したりするような事態が、特にインパール陸戦やレイテ沖海戦など、重要な前線で顕著にみられました。
そうしたことへの痛切な反省から、『責任観念のないことは淋しさを感じた』と述べておいでなのです。
単に、<教育は大いに米国に学ぶべきである>では、全然、意味どころか趣旨自体が違ったものになります。



というわけで、実際の東條英機閣下の直筆の遺書から、直接文字起こしさせていただきました。
文章は、ほぼそのままです。
漢字等の表記のみ、現代語に訳しています。

できるだけ読みやすくなるよう、改行を多くしておきました。
一国の戦争指導者であった人物の、これが最後の遺書です。
是非、ご一読たまわればと思います。

とっても透明感のある文章です。
読むだけで、その人物の誠意が伝わってくるようで、泣けてきます。



【遺言】東條英機

開戦当時の責任者として
敗戦のあとをみると
実に断腸の思いがする。

今回の刑死は、
個人的には慰められておるが、
国内的の自らの責任は、
死をもって贖(あがな)えるものではない。

しかし国際的の犯罪としては、
無罪を主張した。
いまも同感である。

ただ力の前に屈服した。

自分としては
国民に対する責任を負って、
満足して刑場に行く。

ただこれにつき、
同僚に責任を及ぼしたこと、
また下級者にまでも
刑が及んだことは
実に残念である。
天皇陛下に対し、
また国民に対しても
申し訳ないことで、
深く謝罪する。

元来、日本の軍隊は、
陛下の仁慈の御志により
行動すべきものであったが、
一部過ち犯し、
世界の誤解を受けたのは
遺憾であった。

このたびの戦争に
従軍して斃れた人、
およびこれらの人々の
遺家族に対しては、
実に相済まぬと思っている。
心から陳謝する。
 
今回の裁判の是非に関しては、
もとより歴史の批判に待つ。
もしこれが永久平和のため
ということであったら、
も少し大きな態度で
事に臨まなければ
ならぬのではないか。

この裁判は、
結局は政治裁判に終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
 
天皇陛下の御地位
および陛下の御存在は、
動かすべからざるものである。

天皇存在の形式については、
あえて言わぬ。
存在そのものが
絶対に必要なのである。
それは私だけでなく
多くの者は同感と思う。
空間や地面のごとき大きな恩は、
忘れられぬものである。

東亜の諸民族は
今回のことを忘れて、
将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様、
この天地に
生きる権利を有つべきものであって、
その有色たることを、
むしろ神の恵みとしている。

インドの判事には、
尊敬の念を禁じ得ない。
これをもって
東亜民族の誇りと感じた。

今回の戦争によりて
東亜民族の生存の権利が
了解せられ始めたのであったら、
幸である。
列国も排他的の感情を忘れて、
共栄の心持をもって
進むべきである。

現在の日本の事実上の統治者である
米国人に対して一言するが、
どうか日本の米人に対する心持ちを
離れしめざるように願いたい。

また、
日本人が赤化しないように頼む。
東亜民族の誠意を認識して、
これと協力して行くように
されなければならぬ。

実は東亜の多民族の協力を
得ることができなかったことが、
今回の敗戦の原因であると考えている。

今後、日本は米国の保護の下に
生活していくのであらうが、
極東の大勢はどうであらうか。

終戦後わずか3年にして、
亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後のことを考えれば、
実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、
危険この上ないではないか。

今、日本は米国よりの
食糧の供給その他の援助につき
感謝している。

しかし一般がもし、
自己に直接なる生活の困難や
インフレや食糧の不足等が、
米軍が日本に在るがためなりというような
感想をもつようになったならば、
それは危険である。

実際は、
かかる宣伝をなしつつある者が
あるのである。
よって米軍が、
日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる
米英側の指導者は、
大きな失敗を犯した。

第一は、日本といふ赤化の防壁を
    破壊し去ったことである。
第二は、満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は、朝鮮を二分して
    東亜紛糾の因たらしめた。

米英の指導者は、
これを救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が
再選せられたことは、
この点に関して有り難いと思ふ。

日本は米国の指導に基づき、
武力を全面的に抛棄(ほうき)した。
これは賢明であったと思う。
しかし、世界全国家が、
全面的に武装を排除するならばよい。
然(しか)らざれば、
盗人がばっこする形となる。
泥棒がまだいるのに
警察をやめるやうなものである。

私は、
戦争を根絶するには
欲心を
取り払わねばならぬと思う。
現に世界各国は、
いずれも自国の存在や
自衛権の確保を主としている。
これはお互いに
欲心を抛棄(ほうき)
して居らぬ証拠である。

国家から欲心を除くということは、
不可能のことである。
されば世界より
今後も戦争を除くということは
不可能のことである。
これでは結局は
人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、
事実はこの通りである。
それゆえ第3次世界大戦は
避けることができない。

第3次世界大戦に於いて
主なる立場に立つものは、
米国およびソ連である。
日本とドイツというものが
取り去られてしまった。

それがため
米国とソ連というものが
直接に接触することとなった。
米・ソ2国の思想上の
相違はやむを得ぬ。
この見地からみても、
第3次世界大戦は
避けることはできぬ。

第3次世界大戦において
極東、日本と支那と朝鮮が、
その戦場となる。
この時にあって米国は
武力なき日本を守の
策を立てなければならぬ。
これは当然米国の責任である。

日本を属領と考えるのであったならば、
また何をかいわんや。
そうでなしとすれば、
米国は何等かの考えがなければならぬ。

米国は、
日本人8千万国民の
生きて行ける道を
考えてくれねばならない。
およそ生物として、
自ら生きる生命は、
神の恵みである。
産児制限の如きは
神意に反するもので、
行うべきでない。

なお言いたきことは、
公・教職追放や
戦犯容疑者の逮捕の件である。
いまは既に戦後3年を
経過しているのではないか。
従ってこれは
速やかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、
米国は寛容な気持ちを
もってもらいたい。

我々の処刑をもって
一段落として、
戦死病者、戦災死者、ソ連抑留者の
遺家族を慰安すること。

戦死者、戦災死者の霊は、
遺族の申出あらば、
これを靖国神社に合祀せられたし。

出征地に在る戦死者の墓には
保護を与えられたし。
従って遺族の希望申出あらば、
これを内地へ返還されたし。
戦犯者の家族には
保護を与えられたし。

青少年男女の教育は
注意を要する。
将来大事なことである。
近時、いかがわしき風潮あるは、
占領軍の影響から
きているものが少なくない。
この点については、
我国の古来の美風を
保つことが大切である。

今回の処刑を機として、
敵・味方・中立国の
国民罹災者の
一大追悼慰安会を行われたし。
世界平和の
精神的礎石としたいのである。

もちろん、
日本軍人の一部の間に
間違いを犯した者はあらう。
これらについては
衷心謝罪する。

これと同時に
無差別爆撃の投下による
悲惨な結果については、
米軍側も大いに同情し憐憫して
悔悟あるべきである。

最後に軍事的問題について一言する。

我国従来の
統帥権独立の思想は
確かに間違っている。
あれでは
陸海軍一本の行動は
採れない。

兵役制については
徴兵制によるか、
傭兵制によるかは
考えなければならない。
我が国民性に鑑みて、
再建軍の際に考慮すべし。

再建軍隊の教育は、
精神教育を採らなければならぬ。
忠君愛国を基礎としなければならぬが、
責任観念のないことは
淋しさを感じた。
この点については、
大いに米国に学ぶべきである。

学校教育は従前の
質朴剛健のみでは足らぬ。
人として完成を図る
教育が大切だ。
いいかえれば
宗教教育である。
欧米の風俗を知らすことも
必要である。

俘虜のことについては、
研究して、
国際間の俘虜の観念を
徹底せしめる必要がある。

 辞 世

 我ゆくも またこの土地に かへり来ん
 国に酬ゆる ことの足らねば

 さらばなり 苔の下にて われ待たん
 大和島根に 花薫るとき

 散る花も 落つる木の実も 心なき
 さそうはただに 嵐のみかは

 今ははや 心にかかる 雲もなし
 心豊かに 西へぞ急ぐ



東條英機閣下については、現代日本ではA級戦犯であり戦争犯罪者であるという評価をする方もおいでになります。
私は、ひとつの時代を責任者として真摯に生きた人を、後世の平和な日本という環境の中で、裁いたり評価したりするのは間違っていると思います。



理由は三つあります。
1 大東亜戦争の意義
2 戦争責任者
3 歴史に対する姿勢、です。

1 大東亜戦争の意義

日本は、明治維新以来、欧米列強の植民地奴隷になるか、自存自衛を図るか、そして有色人種である近隣のアジア諸国の解放を願って日清、日露、第二次世界大戦大東亜戦争を戦いました。
大東亜戦争では、やむにやまれぬところまで追いつめられて、やむなく乾坤一擲立ち上がっています。

そして立ち上がるに際しては、ただ自存自衛のためというだけでなく、大東亜の民族自立と東亜の植民地支配からの脱却を大義として掲げました。
こういうことを「ただの大義名分だ」と馬鹿にする人がいますが、そういう見方自体が間違いです。
なぜならそこに日本人の日本人たる所以(ゆえん)があるからです。



世界の歴史を見れば、近世までは、ウシハク領主などが、自己の都合で傭兵を雇って戦争をし、それによって民間人が悲惨な境遇に陥ったとしてもまるで関知しないということが、一般的でした。
それが近代となり、国民国家が成立するようになると、国民を騙して相手国への敵意を煽り立て、それによって一種の集団ヒステリーのようなものを形成して、戦争を遂行するということが、あたりまえのように起きるようになりました。

米国が大東亜戦争に際して「Remember Perl Harbor」を標語にしたこともそうだし、いまだに中共や韓国は、抗日反日によって国民に憎悪を駆り立てることで、自国を正当化し、相手国を攻めようとしています。
ところが日本では、源平合戦や戦国の昔から、相手国への憎悪のために、あるいはウシハク領主のために戦争が遂行されたことは、歴史に見ることができません。
そういう戦いが、歴史に存在しないのです。

日本人の戦いは、常に大切なものを護るため、正道を貫くためのものでした。
だからこそ、誰もが納得できる大義名分を常に明確に掲げなければならなかったのです。



領主が民衆を私的に支配するという世界の諸国と異なり、日本では、全ての民衆は天子様の「おおみたから」です。
「おおみたから」であって、私物ではないのですから、民衆に後ろから銃を突きつけて、無理矢理前線で戦わせるなどということはできません。
また、戦いは武士が行うものであり、武士はそれぞれが領民を抱えている小領主ですから、共同して戦うなら、そこにちゃんとした「戦う意味」がなければ、誰も動かない。
武士が憎悪に煽動され、狂気に駆られたのでは、そもそも武士の名に値しません。
だからこそ日本人の戦いには、常に大義名分が必要とされたのです。
このことは、大東亜戦争も同じです。

2 戦争責任者

第二に、東條英機閣下は「戦争犯罪者」ではなく、日本の「戦争責任者」です。
戦争犯罪者というのは、非常に偏った内容を持つ東京裁判の判決による一方的な呼称です。
東條英機氏は、陛下の勅命を受けて戦時下の内閣総理大臣として、戦争を遂行した戦争の総責任者なのであって、犯罪のために戦争を遂行したわけではありません。

3 歴史に対する姿勢

三つ目は、私達自身の「歴史に対する姿勢」です。
歴史は、評価するためにあるのではありません。
学ぶためにこそあります。
何度も書いていることですが、例えば織田信長は正しかったか間違っていたのかなどと、私達が評価しても、そこには何の意味もありません。
むしろ「なぜそのとき信長はそのような決断をし行動したのか」を考え、学ぶことによって、私達は歴史を「今を生きる知恵」にし、「未来を拓く手がかり」にすることができます。
ただ「評価する」というのは、傲慢の誹(そし)りを免(まぬが)れないと思います。



ところで東條英機閣下は、明治17(1884)年の生まれで、もともとは盛岡藩に仕えた家柄です。
父の東條英教氏は、陸大の一期生を首席した人で、同期には日露戦争奉天戦で活躍した秋山好古などがいます。

東條英機氏は、その三男で、陸軍士官学校を卒業後、関東軍参謀、陸軍次官、陸軍大臣を経て、首相に就任されました。
無責任な新聞各社が、「鬼畜米英と開戦やむなし!」などと、どこかの国の真似をして大騒ぎするなか、昭和天皇から、そのような時勢を抑えれるのは東條しかいないと言われて総理の任命を受けたというのは、有名な話です。

昭和20年12月8日、真珠湾攻撃成功の報がもたらされたとき、その日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができなかったと、東條英機氏は、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣したと伝えられています。
そして総理の職を辞した時、昭和天皇から前例のない感謝の勅語が贈られてもいます。



日米が開戦してから、約100日の間、日本は東南アジアではなく、米国領だったフィリピンや太平洋において、米陸海軍をことごとく粉砕しました。
日本国中が勝った勝ったと沸き立っっていました。

同じころ、米国内では、負けた負けたという報告ばかりです。
米国内は、負け戦のたびに失われる米兵の生命で、世論は日米開戦に踏み切ったルーズベルト大統領に対して怨嗟の声が満ち溢れる状況となりました。
米国は、とにかくなんとかして世論を鎮めなければならない。
そこで「話題つくりに」と行われたのが、「ドーリットル空襲」でした。



これは、米陸軍の長距離爆撃機を、米海軍の空母から飛ばして、日本の東京や名古屋などの都市を空爆しようというもので、米側は、これが明らかなハーグ陸戦条約違反である(一般人への無差別攻撃)ことを承知で、この空襲を実現しました。

空爆の被害はたいしたことはなく、「ドゥ?、リトルだった」という軽口も出るほどだったのだけれど、米国内では、開戦後、はじめて日本をやっつけた快挙として、おおいに戦意高揚に寄与したといいます。

このとき、空爆の際に撃ち落された米軍機の乗員が日本の捕虜になりました。
参謀本部は、「死刑にすべし!」と建言しました。
このとき東條英機氏は、これを許さず、世界中のだれが見ても正当な軍事裁判を行うことを決めています。

また、サイパン戦では、島に民間人が多数残っていたことから、民間人に死傷者を出してはならないと、東條英機総理は玉砕戦にひどく反対されています。



そして戦後、GHQが日本にやってきたとき、東條元首相の逮捕後すぐに、都内の東條邸や、青森にある東條英機の実家にまで、GHQは、「戦争を遂行した首相なのだから、どこかに隠し財産があるはずだ」と、徹底した調査を行っています。
それはそれは、とてもひどい徹底した調査だったのだそうです。

その結果は。
何も出てきませんでした。
青森で調査にあたった米軍の指揮官は、一国の総理が、こんなにまで質素な生活をしていたのかと、たいへんに驚愕し、むしろ感銘を受けて帰られました。
このことは、当時、青森でかなりの話題になった出来事です。

そして東條家のご遺族の方々にとっては、この「何もなかった」ということが、いまでも一族の誇りなのだそうです。
それこそが日本です。

私は、東條英機氏は、尊敬すべき立派な日本人であったと思います。
靖国合祀をどうのこうのという人がいますが、それこそ占領軍に媚びへつらう卑怯な人間の振る舞いだと思います。






俺たちは本当の漢なのか?
生き恥を晒していないのか?


ねずさんより
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