俺は漢になりたい

俺は生き残れるのか?本当の漢なのか?

岩崎ゆき


岩崎ゆき




岩崎ゆきと従軍看護婦のはじまり



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この記事は、昨年9月にこのブログでご紹介した記事です。

このときご紹介した
「岩崎ユキの遺書全文」は、ネット上で公開されるのは、たぶんそれが本邦初のことと思います。

私は、この岩崎ユキという、わずか17歳の少女の「覚悟と死」を知ったとき、そのとき人前だったのだけれど、あふれる涙を止めることができませんでした。

そしてこの遺書は、私たちに、とても大切なことをいろいろと教えてくれています。

そこで、今年もまた、この遺書のご紹介を
したいと思います。

はじめに経緯を簡単に書いておきます。
明治27(1894)年8月1日、日本と清国の双方の宣戦布告によって「日清戦争」(〜1895)が勃発しました。

このとき、臨時の戦争指揮所として、明治天皇の御在所が、広島に移りました。

これが「大本営」のはじまりです。
このとき国会議事堂も、広島に移っています。

日清戦争のために出征した日本の将士は
総計30万人です。

広島の宇品の港には、軍船がひっきりなしに往来しましたが、こうした大兵の往復海運の最大の問題は「衛生」です。

まして戦争となればこれに戦傷病者が加わります。

実際の戦争では、戦死や戦傷よりも、病人の方が、何倍も多いのです。

まして当時の支那は、衛生環境が劣悪で、コレラ赤痢、疱瘡その他、伝染病の問屋街でした。

このため同年7月20日には、広島城の西側にあった広島衛戍病院も、戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。

そして実は、この広島陸軍予備病院が、日本ではじめて女性が従軍看護婦として採用された病院です。

医師に看護婦という組み合わせは大昔からあったのですが、戦は男がするものです。

ですから我が国においては古来戦場に出向くのは医師も看護人も、すべて男でした。

このことは、明治維新の際の戊辰戦争や、その後の西南戦争佐賀の乱等においても同じですし、戦国時代にも、またそれ以前の時代においても同じです。

医師も看病人も、すべて男で構成していました。



もともとは西洋においても、戦病傷者の看護は、男性の役割で、これには主に男性修道士たちが奉仕活動の一環として病院の看護を行っていました。

有名なところでは、十字軍の遠征に際して、修道士看護団が編成されています。

彼らは十字軍の遠征に参加し、宗教行事を主催しながら、慈善活動として療養所の運営をしていたのです。

ちなみにいまでも看護婦さんたちは、ナースキャップをかぶりますが、これは修道士がかぶっていたベールが変化したもの、ナース服も、そのデザインのルーツは修道衣です。

ところが1853年のクリミア戦争のとき、フローレンス・ナイチンゲールが38名の女性を引きつれて戦地に入り、このことがきっかけとなって1860年には、ロンドンに世界最初の看護学校が開かれるようになりました。

こうした西洋の波を受けて、日本でも1877年(明治10年)には博愛社が設立され、1888年明治21年)にはジュネーブ条約加盟に伴って、博愛社日本赤十字社と名称変更となり、看護婦の育成が行われるようになりました。

ちなみにその明治10年西南戦争のとき、手塚治虫の祖父の手塚良仙が、軍医として赴任し、戦地で赤痢にかかってお亡くなりになっています。

このときの手塚良仙は医師として赴任していますが、看護師はもちろん全員男性でした。

ところが日清戦争の頃になると、国をあげての戦いということもあって、日本赤十字社から「女性看護婦を是非とも軍で採用してもらいたい」という強い要請が出るようになりました。

陸軍は、当初これを固く断りました。
この理由がたいへん興味深いものです。

ひとつは予算の問題です。
当時の日本はまだまだ貧しく、軍も予算がギリギリです。

先日も「竹橋事件」の記事でご紹介しましたが、西南戦争の論功褒章も遅れがちだったくらいなのです。

それが、わずか7年後の1894年(明治27年)には、もう日清戦争なのです。
とにかくお金がない。

そこに軍病院に女性看護婦を採用すると、男たちとは別に、着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレにいたるまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければならなくなるわけです。

それだけ予算が余計にかかる。

これは困った事態です。

ふたつ目の理由は風紀です。

戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて、万一風紀上の悪評でもたてられようものなら、せっかくの戦功がだいなしです。

今風にいうならセクハラ問題ですが、セクハラというのは、男性が女性に行うセクハラもあれば、女性が男性に行うセクハラもあるわけです。

当時の日本は大家族制の村社会です。

戦地にあって、立派な軍功を立てたとしても、女性に手を付けた、あるいは女性問題が起きたというだけで、二度と故郷の土を踏めなくなる。

これは大問題です。

さらに、当時の施政の基本的考え方が「明察功過」です。

これは聖徳太子の十七条憲法に由来します。
人の上に立つ者は、事件や事故が起こらないように未然に察して手を打つ。

それが人の上に立つ者の仕事と考えられていたし、そのためにこそ上位者には権限が与えられていると考えられていました。

ですから万一、部下に女性問題が起きれば、上官(上位者)は、一蓮托生で、責任問題となりました。

人の上に立つということは、権限があるということです。

そして権限があるということは、当然、責任があるということです。

部下が女性問題でトラブルを起こせば、それが仮に恋愛の上での行為であったとしても、強姦罪として処罰されたし、その処罰は、犯行に及んだ当人だけではなく、その上官まで隊を除隊になるという厳しい処罰が待っていたのです。

あたりまえじゃないかと思われる人がいるかもしれませんが、それこそ非常識です。

たとえば近時、川崎で中一児童が殺害されるという事件がありましたが、いまの日本では、施政者側で責任を取る人は誰もいません。

しかしこれが江戸の昔なら、川崎の町奉行切腹です。

悲惨な事件や事故が起こらないようにするために、奉行としての全権が与えられているのです。

にも関わらず事件事故が起きれば、それは当然奉行の責任であるし、そうであれば自ら腹を斬るのが常識だったし、もし、自分で腹を斬らず、江戸表から使者が来て上意で切腹となれば、そのお奉行はお家断絶です。

明治初期は、四民平等となり、農民や町民が軍の役職に就くようになったため、明治政府も切腹までは求めなくなりましたが、それでもクビは当然と考えられていましたし、ひとたびクビになれば、故郷の土を踏めなくなるし、二度と親に顔向けできなくなったのです。

事件や事故が起こらないようにするために権限はあります。

ですから起きたなら、当然にその責任をとることがあたりまえです。

けれど昨今の日本では、あれだけの事件が起きても、施政者側に誰も責任を取る人がいません。

切腹しろとまでは言いませんが、権限と責任の関係が曖昧になっているのが、いまの日本です。

さて、上述のような内容で、軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた日本陸軍でしたが、やはり看護ということになると、少々取り扱いが厳しい男性よりも、女性の方がありがたいという側面もあります。

そこで陸軍の石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が、
「風紀上の問題は私が責任を負う」
と明言することで、ようやく、まずこころみとして、少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用してみることになりました。

ただしこれには条件がありました。

女性は40歳以上であること。

そして樺山資紀(かばやますけのり)海軍軍令部長婦人、仁礼海軍中将夫人らが看護婦たちと起居をともにし、また看護婦らの安全をはかり、また夫人らも一緒に看護活動にあたることとされました。

このときNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』の新島八重も赴任しています。

半年が経ちますと、女性看護婦がたいへん評判が良い。

しかも患者の数は日々増えていきます。

そこで篤志看護婦人会員の若い女性たちが、徐々に「看護婦の助手」として広島陸軍予備病院に送られるようになりました。

その中のひとりが、日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ17歳になる「岩崎ゆき」です。

派遣され、赴任したのが1894年(明治27年)11月7日です。

彼女は、伝染病室付となりました。

そして勤務中に、気の毒にチフスに感染して死亡してしまうのです。

1895年(明治28年)4月8日発症、25日没です。

岩崎ユキが亡くなった後、その荷物の中から遺書が発見されました。

そこには次のように書かれていました。


******


お父さま、お母さま、
ゆきは大変な名誉を獲得いたしました。
家門の誉れとでも申しましょうか。
天皇陛下にゆきの命を喜んで捧げる時が
来たのであります。
数百名の応召試験の中から、
ゆきはついに抜擢されて、
戦地にまでも行けるかも知れないので
あります。

ゆきは喜びの絶頂に達して居ります。
死はもとより覚悟の上であります。
私の勤務は救護上で一番恐れられる
伝染病患者の看護に従事すると云う
最も大役を命ぜられたのであります。

勿論予防事項については充分の教えは
受けて居ります。
しかし強烈あくなきばい菌を取扱うので
ありますから、
ゆきは不幸にして何時感染しないとも
限りません。

しかし、お父さま、お母さま、
考えても御覧下さい。
思えば思う程この任務を命ぜられたのは
名誉の至りかと存じます。
それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の
苦戦地に闘うのと同じであるからであります。

戦いは既にたけなわであります。
恐ろしい病魔に犯されて
今明日も知れぬと云う兵隊さん達が
続々病院に運ばれて来ます。

そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して
呉れろと譫言にまでどなって居ります。
この声を眼のあたりに聞いては
伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち
消し飛んでしまいます。
早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。
感激と申しましょうか、
ゆきは泣けて来て仕方がありません。

今日で私の病室からは十五人もの兵士達が
死んで行きました。
身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな
眠りであります。
また中には絶叫する兵士達もありました。

「死は残念だぞ!
 だが死んでも護国の鬼となって
 外敵を打たずに済ますものか」と
 苦痛を忘れて死んでいったのです。

あるいは突然「天皇陛下万歳!」と叫ぶので
慌てて患者に近寄りますと、
そのまま息が絶えていた兵士達もありました。

しかも誰一人として
故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで
逝ったものはありません。

恐らく腹の中では飛び立つほどに
故郷の空が懐かしかったでありましょう。
ただそれを口にしなかっただけと思われます。
故郷の人達は、彼の凱旋を、
どんなにか指折り数えて待っていたことで
ありましょう。

悲しみと感激の中に、私はただ夢中で
激務に耐えて居ります。
数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるので
ありますが、
ゆきの頭脳にはこうした悲壮な光景が
深く深く焼きついていて、
寝ては夢、醒めては幻に見て、
片時たりとも心の落ちつく暇がありません。

昨日、人の嘆きは今日の我が身に振りかかる
世のならいとか申しまして、
我が身たりとも、何時如何なる針のような
油断からでも
病魔に斃されてしまうかも解らないので
あります。

しかしゆきは厳格なお父様の教育を受けた
娘であります。
決して死の刹那に直面しても
見苦しい光景などは残さない覚悟で居ります。

多くの兵士達の示して呉れた
勇ましい教訓通りにやってのける決心で
あります。
決してお嘆きになってはいけませぬ。

男子が御国のために名誉の戦死をしたと
同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

*******


岩崎ユキ


岩崎ユキは、明治10年12月23日の生まれです。

この時代、看護婦になるというのは、たいへんに狭き門でした。

まず看護学校に入学することが、たいへんなことでした。

よほど成績優秀、身体頑健、性格良好でなければ、まず受からない。

そして受かったあとの看護婦教育がまたたいへんでした。

全寮制で学ぶのですが、「明日の朝までにこれこれの資料を読んでおくように」と、教官から予習を命ぜられるのですが、それが本をまるごと二三冊だったりするわけです。

ところが寮は消灯時間が決められていて、夜10時には電気が消されてしまう。

もちろん、時間以降は、宿所内でろうそくの使用も禁止です。

ところがそれでは勉強が追いつかない。

そこで、寮内で唯一明かりのある便所にこもっり、交代で勉強をしたそうです。

彼女たちは、そこまで努力をして看護婦になりました。

明治27年10月10日に、日本赤十字社京都支部の看護婦として採用になり、11月4日に召集されました。

そして救護団に編入し、11月7日に広島陸軍予備病院第三分院付きとなります。

チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか5ヶ月後の明治28年4月8日のことでした。

そしてその17日後の4月25日にお亡くなりになっています。

そして昭和4年4月13日、靖國神社に合祀されました。

この遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲皇后陛下にもお涙を催させ給うことになりました。

女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴いている。

岩崎ゆきのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。

そして陸軍が正式に女性看護婦を採用したのは、この25年後の大正8年、そして陸軍の養成看護婦は昭和19年のことです。

日清戦争当時、我が国では広島予備病院の他、各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦を付け、また赤十字社病院船博愛丸、弘済丸はもちろん、そのほか各臨時にできた病院船にも、また海軍病院にも看護婦が付けられました。

そしてこれら女性看護婦の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。

まったく軍の医療施設に女性看護婦を配置できなかったのが、きわめて短期間の間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争第一次世界大戦支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して、戦傷病者の看護にたいへん大きな貢献をするに至りました。

そしてその背景には、当時若干18際の岩崎ゆきの覚悟と死があったのです。

男だけでなく、女達も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。

そしてその日本があったからこそ、世界に500年続いた植民地支配という収奪が終焉を迎えたのです。

私達はそんな曾祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、いまの命をいただいています。

そのことを、もういちど、しっかりと胸に焼き付けたいと思います。







最後にもうひとつ、友人の言葉を掲載します。

****

10年後の日露戦争時に、中学生くらいの女の子が、
「2人の兄は出征しました。
 女の私でも、何かお国のためにできることは
 ないかと考えましたが、
 看護婦にでもなろうかと思います。
 どうか私を看護婦にしてやって下さい」
陸軍大臣寺内正毅に書いた手紙をどこかで見たことがあります。

国家の一大事に臣民の一人一人がどう考えていたか。

洗脳教育とかいう輩には永久に理解できないですね。

「子供たちが戦争に行かされる!」と声高に騒ぐ輩が、
「私が命に代えても子供を守る!」とは、絶対に言わないですものね。

自分だけ安全な場所にいて、口ばかりの輩に聞かせたいです。


みなさんは、何をお感じになりましたか?


お読みいただき、ありがとうございました。


ねずさんより
画像、リンクは追加しています。


靖国に祀られない看護婦たち リンク



平和ボケした
自称近代国家

街ゆく人たち
ここにミサイルが
降って来たら

俺たちは
逃げ惑うのか

添加物と
ケムトレイル
栄養満点の
とある国

下らない
セミナーに
参加しろと
喚く詐欺師に
巻き上げられる
とある国民

自分で考え
自分で
決めているのか

散華した魂は
こんな国を
望んでいるのか


俺は何者なのか

あなたは何者なのか